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校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.83

〜 監督、帰ったら大勢で迎えてくれるのか、
 がっかりした人を見るのか、どっちでしょうね? 〜

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1931(昭和6)年、甲子園球場。
第17回全国中等学校野球(現:高校野球)大会に
台湾代表の嘉義(かぎ)農林学校が初出場を果たした。
当時、台湾は日本の統治下にあった。

前年までは台湾での予選で
1勝すらしたことのない弱小チーム。
しかし新たに日本からきた近藤兵太郎監督は
台湾、中国、日本それぞれの民族の持ち味を生かし、
混合チームとして強化していく。
走力、打力、そして守備力と
それぞれの特技を最大限発揮させたのだ。

「農業の勉強もしないで」と嘉義の人たち。
それでも懸命に練習を繰り返す選手たちの姿に
次第に町をあげて応援するようになっていく。

そして嘉義農林は台湾予選を勝ち進み
ついに憧れの甲子園の切符を手にしたのである。


甲子園でのマスコミの反応は冷ややかだった。

「混合チームでどうやって会話するの?」
心ない質問が投げかけられる。
野球の実力には関心を持ってくれない。
なぜならそれまでの台湾代表チームは
全て日本人で構成されていたのである。

しかし、大会が始まると
嘉義農林は快進撃で勝ち進む。
甲子園のファンたちも
その真剣な戦いぶりに
次第に嘉義農林を応援するようになっていく。

彼らのユニフォームには「KANO」の文字。
まさに「KANO」旋風が甲子園を席巻(せっけん)する。
そして嘉義農林はついに決勝戦へと進出する。
決勝戦の相手は全国No.1の愛知県代表中京商業。

それまでの激戦の中で
嘉義農林の選手たちは既に満身創痍(まんしんそうい)。
最後まで粘ったものの力及ばず敗れる。
それでも甲子園の観客は嘉義農林の選手たちに
惜しみない拍手を送る。

甲子園は今も昔も敗者に優しい。

1931年のこの年、
甲子園で準優勝した嘉義農林の選手たち。

後に、ある者は日本の野球界で活躍し、
ある者は台湾で野球の普及に尽力した。
そしてある者は太平洋戦争に召集され、戦死している。

戦前から戦後にかけて、
甲子園のファンの間では
「KANO」の躍進は語り草になったという。

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1931年、全国準優勝した選手たち。
甲子園から台湾へと戻る船の中でのこと。
エースの呉明捷選手が
近藤監督に問いかける。

〜 監督、帰ったら大勢で迎えてくれるのか、
 がっかりした人を見るのか、どっちでしょうね? 〜

監督が静かに答えた。

〜 きっと見渡す限り、
 風にたなびく黄金の稲穂が迎えてくれるさ 〜


※参考:台湾映画
   『KANO 1931海の向こうの甲子園』(2014年)

※「コラム」欄に「余録」を掲載しました。
最後のセリフの背景がわかります。
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12/11
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教育相談、進路面談終