『お知らせ・トピックス』のコーナーでは、「今日のできごと」や「おしらせ」、「校長室より」など更新された順に砧中の様子を紹介しております。それぞれの記事をご覧になる場合には、左欄のカテゴリのタグから項目をお選び下さい。

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.66

🎵 今 私の願いごとが 叶うならば
   翼がほしい
   この背中に 鳥のように
   白い翼 つけてください 🎵

フォークグループ「赤い鳥」が
1971年に発表した『翼をください』の一節。
現在は合唱曲として
数多くの学校でも歌われている。
「背中に翼をつけて鳥のように大空を羽ばたく」
これは私たち人間にとって永遠の夢である。

その夢に水を差すような話題を。

 〜 鳥は本当に空を飛びたいのか? 〜

鳥類学者 川上和人氏によると
多くの鳥はほとんど空を飛んでいないと言う。
例えばスズメの飛ぶ平均時間は
30分間で1分ほど。
カラスは35秒、
ハトに至っては24秒しかない。
意外な事に地面で過ごす時間が圧倒的に多いのだ。

鳥にとって飛ぶという行為は
相当なエネルギーを消費する。
長時間飛行する渡り鳥も
飛び立つまでの期間、体内に多くの脂肪を
エネルギーとして蓄(たくわ)えなければならない。

鳥たちにとって「飛ぶこと」は
とても「しんどい」ことなのだ。

さらにその鳥の翼、
これは進化の過程で腕が変化したもの。
私たち人間が翼をつけるためには
背中ではなく、腕の代わりにつけることになる。
何かを身につけるためには
何かを失わなければならない。

鳥類はかつて二足歩行の恐竜から
進化したと言われている。
敵から身を守るために
必死に腕を羽ばたかせ、
命からがら逃げ続けたのであろう。
いつしかその腕は羽毛に覆(おお)われ、
少しずつ空を飛べるようになったと推測される。

鳥たちの翼は
何万年にもわたる命がけの結果と言える。
できることなら
鳥たちは空を飛びたくなかったのである。


  🕊️    🕊️    🕊️    🕊️


そんな風に生物学的に考えると
私たちが翼に込めた夢や希望が
次第に色褪(いろあ)せていくように思えてくる。

それでも私は翼に、夢や希望を託したい。
太古の昔から、人が大空に憧れ、
翼をつけて飛ぶことを目指してきたように・・・

※ 木の枝に止まる鳥は
 決して枝が折れることを怖れたりしない。
 枝を信頼しているからではなく
 翼を信頼しているからだ。
 
(※ アラン・ピーズ&バーバラ・ピーズ著作より)

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.65

アメリカの小話から。

テキサス州に住む家族の出来事。
ある夜、次の休日の旅行の計画について
家族の間で話し合いが行われた。
家族の一人が提案した。
「アビリーンの町に行こう」と。
話し合った結果、その提案を受けて
アビリーンの町へ家族旅行する事が決定した。

休日、家族の旅が始まった。
しかしアビリーンまでの道中は
長く、暑く、埃(ほこり)っぽく、
目的地に着くまでに家族全員が疲れ果ててしまった。
さらにその町には見所がほとんど無かったのだ。

一人が不満を口にする。
「だから私はアビリーンには反対だったのだ」
もう一人が問い詰(つ)める。
「もともと誰がアビリーンと言い出したのだ?」
最初に提案した一人が答える。
「私はただ提案しただけで、行きたいとは言っていない」

話し合って何かを決めることは大切である。
しかし、時には無責任な結論となる場合も。
「アビリーンの逆説」と呼ばれるこのお話、
私たちが話し合いをする際に
心に留めておきたいエピソードである。


  🚙    🚙    🚙    🚙


「対話的な学び」が学校に求められている。
かつての講義形式の授業が見直され、
話し合い活動が取り入れられるようになった。
もちろん、これからの時代
「話す力」を身につけることは必要である。

とは言え、話し合いには落とし穴もあるのだ。

 − だから私は反対だった −

大人の話し合いでもよくある光景。
イギリスのEU離脱(りだつ)問題も
もしかしたら「アビリーンの逆説」か。


  ✏️    ✏️    ✏️    ✏️


SNSで様々な意見が飛び交う今の時代。
ネット上ではあらゆる問題について議論が活発だ。
それらの議論を見ていると 
議論の相手を一方的に批判する書き込みも多い。

確かに議論は相手と対立するものだ。
それでも相手を中傷ことには疑問を感じる。
物事を決めるために「議論」は必要だが、
砧中学校での取り組みでは、
まずは「対話」から始めたいと思う。

このコラムの最後に
前回取り上げた小説「竜馬がゆく」を再び。
主人公竜馬の言葉から。

  俺は議論はしない。
  議論に勝っても
  人の生き方は変えられぬ。

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.64

私が中学生の時のことである。
当時は健康診断の項目に「色覚検査」があった。
数種類の色のモザイク模様の中から
文字などを読み取らせるという検査。

そして私は毎回この検査で
「異常あり」と診断されていた。
日常生活で不便を感じていなかったにも関わらず。

その年の検査でも模様の中の文字が読めなかった。
検査を担当していた先生は淡々と私に告げた。

      ~異常あり~

それを聞いていた同級生たちを介(かい)して
私の検査結果のことが校内の噂(うわさ)となった。

軽い遊び心からであろうが
何人かの同級生が私の色覚を試すかのように
文房具などを私に見せながら
質問を投げかけるようになった。

「これは何色(なにいろ)に見える?」と。

繰り返される無自覚な悪意に
私は追い込まれていった。

ある日のこと。
他のクラスの生徒が廊下ですれ違いざまに
赤い下敷きを私に見せながら問いかけてきた。
「何色に見える?」

悲しさと悔しさで
私は怒りに震(ふる)えながら彼に言い返した。

「いい加減にしろよ。赤に決まってるだろ!」

その生徒は赤い下敷きをヒラヒラさせながら
「ハズレ、黄色です。」と嘲(あざけ)るように笑った。
自分は冷やかしやからかいの対象となっている、
そう感じた私は耐(た)えきれなくなり
逃げるように教室へと駆け込んだ。


  👓    👓    👓    👓


そんなある日
私は図書室で一冊の本と出会った。
分厚いその本に元々興味があったわけではない。
偶然手に取っていたのだ。

『竜馬がゆく』(司馬遼太郎 作)

読み始めてすぐにこの本の虜(とりこ)となった。
人の噂などものともせず
自分の信じる道を突き進む主人公竜馬の姿に
次第に魅(み)せられていった。

本を読み進めながら
いつしか自分自身に言い聞かせていた。

「他人の言動には振り回されない」


  📘    📘    📘    📘


数ヶ月後、廊下で例の生徒と出くわした。
彼は相変わらず赤い下敷きをヒラヒラとさせながら
同じ質問を私にしてきた。
「何色に見える?」
 
不思議なもので、
その日の私は以前の私とは異なっていた。
悲しさや悔しさといった感情が
湧(わ)いてこないのだ。
それどころか、私に問いかけるその生徒に対して
哀(あわ)れみの気持ちさえ抱(いだ)いていた。

私は静かにその生徒を見つめていた。
しばらく彼は私に同じ質問を繰り返していたが
徐々(じょじょ)に私から目をそらし始めた。
哀れみの眼差しで見つめられていることに
彼の方が耐えきれなくなったのかもしれない。
急に押し黙(だま)ったかと思うと、
逃げるように私の前から立ち去っていった。

一冊の本との出会いが
私の中に大きな変化をもたらせた瞬間だった。
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行事予定
5/29
(水)
3年振替休業日

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