『お知らせ・トピックス』のコーナーでは、「今日のできごと」や「おしらせ」、「校長室より」など更新された順に砧中の様子を紹介しております。それぞれの記事をご覧になる場合には、左欄のカテゴリのタグから項目をお選び下さい。

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.101

12月、街の至る所がライトアップされ
クリスマスソングが流れる。


私が小学校1年か2年の時、
同じクラスにとてもおとなしい少女がいた。
彼女は休み時間も授業中もほとんどしゃべらず
いつもひとりだったように記憶している。

二学期も残り少なくなったある日、
帰りの学活の時間に担任の先生が
私たちに問いかけた。

「みなさんはクリスマスに何をしますか?」

何人かの児童が指名された。

〜 家族でパーティーします 〜
〜 いとこと一緒にスキーへ行きます 〜

笑顔で答えるクラスメートたち。

最後に担任はその少女を指名した。
彼女は質問に答えず無言のままだった。
下をうつむいて顔を上げようとしない。

隣の席だった私は
彼女が泣いていることに気がついた。
その事を担任に告げようとした時、
待ちきれなくなった男子児童の一人が
心ない言葉を彼女に浴びせた。

「黙ってないで早く答えろよ!」

担任の先生もその時になって初めて
少女が泣いていることに気づいたのか
急に慌てた様子で話題を変えた。

「冬休みは計画的に過ごしましょう」


終業のチャイムが鳴る。
少女が寂しそうに教室を出ていく。
その後ろ姿を見送りながら
なぜか切なくなって
声をかけようとして
声をかけられない私。
彼女が背負う赤いランドセルが
所々色が剥(は)がれ落ち
何年も使い古されたように見えた。

その学年が終わる頃
少女は転校して行った。

🎒

『Do They Know it's Christmas?』
(彼らは今日がクリスマスと知ってるだろうか?)

1984年に飢餓で苦しむエチオピアの人々への
チャリティーとして歌われたクリスマスソング。
この曲を聴くと、
遠い日の少女の記憶が呼び起こされる。

華やいだ街のイルミネーション、
サンタの衣装と同じ赤い色が目につく。
この季節の赤い色を見るたびに
私はあの日の少女の
所々色が剥がれ落ちた
赤いランドセルを思い出している。

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.100

2006年12月、事故は突然に起きた。
三代達也(みよ たつや)さん、当時18歳。
バイク事故で頸髄(けいずい)損傷。
奇跡的に一命はとりとめたものの
生涯車いす生活を余儀なくされる。

絶望の日々を乗り越え
三代さんのチャレンジが始まる。

無謀とも言える車いすによる世界一周。
18歳で一度は終わった人生、
やらない後悔よりやる後悔を選択する。


しかし、いざ旅立ってみると
想像以上のバリアが彼の前に立ちはだかる。
障害者支援を装った詐欺集団。
車いすには苦行となる石畳の道。
原因不明の高熱による旅の中断。

それでも彼は信じ続ける。
あらゆるバリアは
人の手で越えられると。



駅などの公共の場で
車いす利用者を見かけた場合
あなたはお手伝いの声かけをしますか?

この質問に多くの日本人はこう答えると言う。

声かけしたいけど
周囲の視線が気になって
気づかなかったふりをする。


30年ほど前の出来事。
JR駅の券売機の前で
私と同世代の車いすの女性が
料金表示を見上げていた。
あまり気にもとめずに通り過ぎた私。

改札口の手前まで来たとき
通り過ぎた券売機の方から声が聞こえた。

「お手伝いしましょうか?」

振り返ると中学生と思われる女子生徒二人が、
車いすの女性に話しかけていた。

「ありがとうございます、手が届かなくて」

そう、車いすの女性は券売機の前で
切符を買えずに困っていたのだ。
私はその事に気づかなかった。
自分の教え子と同じ中学生、
彼女たちはそれを見逃さなかった。

教師でありながら気づかなかった私。
いや、今改めて振り返ってみると
私は気づいていたのかもしれない。
声をかける勇気がなく、
自分自身に気づかなかったのだと
思い込ませたかったのかもしれない。

🎫

三代さんの車いす一人旅。
ニューヨークの交差点を横断中、
段差に気づかず、車いすごと転倒した。
行き交う自動車を前に
絶体絶命のピンチに陥る。

その時である。
通りすがりの人たちがさりげなく駆け寄り
ある人は車いすを元に戻し、
ある人は三代さんを支えて起こし、
ある人は散らばった持ち物を拾い集め
そして、駆け寄った時と同じように
さりげなくばらばらに去って行った。
見ず知らずの人たちによるチームワーク。
15秒間の奇跡の連携プレーだった。

あらゆるバリアは
人の手で越えられる。

三代さんは世界一周を達成し、
その経験を一冊の本に著した。

『一度死んだぼくの、車いす世界一周』

本の最後に
旅で訪れたハワイの言葉が紹介されている。

NO RAIN , NO RAINBOW
(雨が降るから、虹がかかるんだよ)

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.99

1990年夏
ドイツ・ミュンヘン中央駅から
列車とバスを乗り継いで、
私は目的地へと到着した。

ダッハウ強制収容所

ナチス、ヒトラー政権下の1933年から12年間
ユダヤ人をはじめ政治犯や難民など
政権にとって「敵」と見なされた人々が
囚人としてこの場所へと強制的に送られた。

焼却炉、ガス室、そして収容棟。
当時250名定員の収容棟に
1600人が生活していたという記録もある。

ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)
ドイツ語で掲げられたこの言葉を信じて
多くの収容者がこの地で命を落とした。

八月の容赦ない日差しがじりじりと照りつける。
むせかえるような夏草の香に息苦しさを覚える。
私は半世紀前にこの場所で繰り広げられた
非人道的な行為が幻となって眼前に現れた気がして
思わずその場に座り込んでいた。

🌿

『ベルリンは晴れているか』(深緑野分 著)

ナチス政権下の監視国家ドイツを、
そして敗戦後の荒廃したドイツの姿を
日本人作家が書いたとは思えないリアルな筆致で
克明に、そして悲しみを込めて描いた小説。
1990年夏にダッハウで見た幻が
再び私の眼前に現れたかのような錯覚に襲われた。

人間が人間に対して
これほどまでに冷酷に振る舞えるのか、
先を読み進めていくことが息苦しくなり、
私は何度も本を閉じた。

密告、裏切り、暴力 ……そして傍観。
その非人道的行為に加担したのは
他の誰でもない、まさに隣人たち。
ナチス政権上層部の幹部たちではなく、
名もない一般市民たちであった。

救いの見えない物語の中で、
それでも主人公である一人のドイツ人少女の
懸命に前に進んでいこうとする姿に突き動かされて
私は一か月かけてこの本を読了することができた。

ベルリンの壁崩壊から今年で30年。

🌳

哲学者ハンナ・アーレントが訴えたこと。

私的な考えや振る舞いが
公的な場で当然となっていく社会、
その行く着く先には全体主義が待っている。
かつてのナチス政権下のドイツのように。

その私的な考えが「他者への憎悪」であった場合、
そして公的なものがその憎悪を利用しようとした時に
多くの悲劇が生まれるであろうことは
既に歴史が証明している。
国家が誰かを「敵」と見なした時に
国民は簡単にそれを許してしまう。

ヒトラーが選挙で選ばれたことを
私たちは決して忘れてはならないのだ。


恐ろしいことは中々起こつて来ないやうに見えて
平気で起こつてくるものである
〜武者小路実篤

1941年12月8日 日米開戦

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.98

江戸から明治へ。
鎖国が終わり、多くの外国人が日本へとやって来た。
日本人の風習を知らない外国人は
平気で靴を履いたまま座敷へと上がる。

「土足で踏みにじる」

日本人にとっては受け入れ難い行為。
しかし生活習慣の違いから
なかなか改められない。
そこで一人の仕立て職人が考えた。
靴の上から履ける履き物を作れないかと。

「スリッパ」の誕生である。

👟👟

かつて私が東南アジアを旅した時の出来事。

マレーシアのイスラム寺院を訪れた時、
私の前に寺院に入ろうとした
日本人の男女二人連れが
警備員に立ち入りを拒否されていた。
猛然と抗議する男性。
頑として認めようとしない警備員。

実は連れの女性のミニスカートが問題となっていた。
神聖な場所では極端な肌の露出は許されないのだ。
この時の警備員の立場に立つと
「土足で踏みにじられる」行為だったのかもしれない。

結果的には寺院から貸し出された
腰に巻く布を着けて二人は入場を認められた。


私的なものが公的な領域を侵食し始めている。
本来なら公的な場では振る舞うべきでない行為。

ラッシュ時の電車内での食事
映画館での上映中のおしゃべり
公道でのゴミ捨て
あおり運転
歩きスマホ・・・

私が敬愛する哲学者ハンナ・アーレントは
私的領域の公的領域への拡大に警鐘を鳴らし続けた。
公(おおやけ)の場での私的な振る舞い。
それを当然のことと行動する人たち
それを見て見ぬふりする人たち
そんな社会の行き着く先は ……… ?

👞👞

再び「靴」について。

飛行機に乗った時に
座席に着くなり靴を脱ぐ人の割合は
日本人が圧倒的に多いと言われる。

確かに靴を脱ぐとリラックスできる。
しかし、飛行機内は公的な場である。
もし、あなたの隣に外国人が座っていたとして
あなたが靴下だけになったとしたら、
間違いなく不快感を示すだろう。

なぜ?と思う人は想像してみよう。
例えば電車のボックス席で
あなたの向かい側に座る知らない人が
突然、靴を脱いでをあなたの座る横に
足を投げ出してきたとしたら。
きっとあなたは気持ちの中で
「"土足"で踏みにじられた」と感じるだろう。

私も飛行機に乗った時には
特に長時間のフライトではリラックスしたい。
それでも決して靴下だけになることはしない。
そんな時のために必ず持参する物がある。
その物とは・・・
一人の仕立て職人が土足を防ぐために発明した物。

そう、「スリッパ」である。

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.97

〜 ナスカ地上絵、新たに143点発見 〜

数日前の新聞でこのニュースを知った。
山形大学の研究チームが
史上初めて人工知能(AI)を使い
地上絵を新たに発見したという。

【ナスカ地上絵】
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
南米ペルーのナスカ高原。
今から数千年前の人々が
100メートルにも及ぶ
幾何学模様や動植物の巨大な絵を
地表に描いているのだ。

20世紀初頭に発見され
航空機が無かった数千年前、
何の目的でどうやって描いたのか
世界の謎とされてきた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

🇵🇪

私が中学生の時、
この地上絵に関して
クラスを二分する論争が巻き起こった。

科学的可能説と宇宙人説。
科学的可能説のリーダーは
理科大好き少年A君。
そして、宇宙人説のリーダーは・・
私である。

当時の技術で巨大な絵を描くのは不可能、
それも空からしか見えないような絵となれば
宇宙人の地球着陸の目印でしかないという私。

不思議なことがあれば宇宙人のせいにする、
その短絡的な思考が科学の冒涜(ぼうとく)であり
杭(くい)と縄(なわ)があれば描けるというA君。

A君は鉛筆と紐(ひも)を使い、
地上絵の描き方を一生懸命私に説明した。
宇宙人説に固執している私のグループは
そんな説明には全く興味を示さない。

「夢とロマンが無いんだよ」と批判する私。
「科学こそ夢とロマンだ」と反論するA君。

「じゃあ聞くけど、ネッシーも否定するわけ?」
私はA君に対して別の話題で攻める。

「あの写真もきっと捏造(ねつぞう)だよ」
ネッシー存在説を全面的に否定するA君。

【ネッシー】
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
イギリス スコットランドの
ネス湖に生息していると言われる首長竜。
当時、恐竜の生き残りではないかと
湖から長い首を出した写真が話題となっていた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

A君グループは少数派。
それに比べて私のグループは大人数で
数の上では圧倒的に有利だった。
その多数派の安心感からか
私はお堅い主張を繰り返すA君グループに
ムー大陸から雪男伝説まで
世界の超常現象について語り続けていた。


45年経った今。
振り返ってみると
当時のA君の主張が
ことごとく当たっていたことになる。

ネッシーの写真はその後、
撮影者自身が捏造であることを認めている。
そして最新のDNA調査により
巨大なウナギ説が有力となったのだ。

ナスカの地上絵の描き方は
当時A君が説明した通り
「拡大法」という手法で
今では小学校の算数の授業でも実践されている。

私の夢とロマンは
科学の夢とロマンに完敗した……かに見えた。

👽

今年のノーベル物理学賞。
受賞したスイスの研究者は
不可能と言われた
太陽系外の惑星発見に成功した。

この惑星発見により
地球以外の星に生命体が存在しているという
科学的成果への期待が急速に高まってきた。


半世紀前のクラスでの大論争。
改めて思い返してみると
A君も私も
「好奇心」旺盛だったことは共通していた。
「科学」と「空想」という
名前は異なる「好奇心」ではあったが。


「科学も宇宙人も夢とロマンだね」
私はタイムスリップして
半世紀前のA君と握手したい気持ちになった。

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.96

テレビのニュース番組を観ていて
いつも気になることがある。
何かの出来事に対して
一般の人たちにインタビューする
「街の声」である。

有名タレントの結婚報道に
街の声は・・
「ショックです」
「素敵な家庭を築いてください」

コンビニの24時間営業見直し報道に
街の声は・・
「ちょっと困りますね」
「時代の流れですから仕方ないです」

報道する側は
意見が偏らないよう
賛否の声をきちんと取り上げている。
私はそのインタビュー映像を観て
「まぁそうだよな」と納得する。

いや、それでも違和感が残るのだ。

📺

「街の声」とはいったい何だろう?

〜みんなが言っているよ
〜君のこと、みんなが言っているよ
〜君のこと、みんなが「変わり者」だと言っているよ

街の声〜みんな〜街の声〜みんな〜〜・・・


四国から上京し、
都会に馴染(なじ)もうとあがいていたあの頃。

地方訛(なま)りを笑われ
ファッションセンスを笑われ
流行のお店を知らないことを笑われ
次第に人から笑われることに
臆病(おくびょう)になっていたあの頃。

それを覆(おお)い隠(かく)そうと
懸命にお調子者を演じていたあの頃。

そんな時に友だちと思っていた人から
私の反応を確かめるように告げられた言葉。

〜君のこと、みんなが「変わり者」だと言っているよ

暗い穴の中へと落ちていくような人間不信。
「みんなって誰?」
「みんなって何人?」
「みんなって、私の事を知っている人たち?」

そんな時に出会った本、
太宰治の『人間失格』。

その小説の中の会話に
私は一筋の光を見出だしたように思えた。


"それは世間が許さない"
"世間じゃない、あなたが、許さないのでしょう?"

"そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ"
"世間じゃない、あなたでしょう?"

小説を読み終えた私は
「世間」とは他の誰でもない
その人自身のことなのだと思えてきて、
気持ちが少し軽くなっていった。

そう、「世間」も「みんな」も
そして「街の声」も。

🎤

東日本大震災が起きた年のクリスマスイブ。
帰宅途中、たまたま洋菓子店の前で
ケーキを眺めていた私は
テレビかラジオのレポーターに
マイクを向けられた。

「ケーキは誰と一緒に食べられますか?」

一瞬、笑顔で答えようとした私の脳裏に
津波でふるさとを失った人たちの
悲嘆にくれる姿がよみがえってきた。

クリスマスイブを自宅で過ごすことができない
多くの人たちの今なお続く現実。

私はレポーターに頭を下げて
無言でその場を立ち去っていた。

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.95

あまたある学園ドラマの中で
『めだか』(2004年にTV放送)は
定時制高校を舞台としたドラマである。

目黒たか子、通称"めだか"は
リストラされた元OL。
持っていた国語の教員免許のお陰で
何とか定時制高校教師の職を得る。

たまたま職を得たというだけで
めだかは教師の仕事に意欲が湧かない。
彼女の担任するクラスには年齢も様々な
一癖も二癖もある生徒たちが揃っていた。

めだかは自分より人生経験豊富な生徒たちと
様々なトラブルを通じて関わる中で
教える立場の自分が
実は生徒たちから学んでいることに気づいていく。

✏️

ドラマが放送されていた頃、
私は仕事の関係で
都立高校の夜間定時制課程を見学した。

時刻は19時過ぎ、数学の授業中。
突然、教室のドアをガラッと開けて
大柄な男子生徒が入ってきた。

体全体に負のオーラを纏(まと)っている。
十人程度のそのクラスで
彼のふてぶてしい態度は異様だった。

それでも淡々と授業を続ける数学教師。
黒板に三角関数の問題を書く。

「この問題、解いてくれる人は?」教師が問う。

その時、私の想定外の事が起きたのだ。
例のふてぶてしい態度の生徒が手を挙げている。
数学教師は迷うことなく彼を指名した。

黒板の前でしばらく考えた後、
スラスラと答えを書き始めた。

「そうだね、お見事!正解です」

ちょっと笑みを見せながら
生徒はふてぶてしさはそのままに
自席へと戻って行った。


「中学時代は手に負えない生徒だったようです」

授業後、別室で数学教師は私に話してくれた。
繰り返される問題行動。
高校入学後もトラブル続きだったと言う。

ある日のこと。
授業中、全くやる気を見せないその生徒と
放課後話し合いを持った。
「やる気がないのなら学校来なくていい」
思わずそう言いそうになって
教師はその言葉をグッと呑み込んだ。

きっと同じ言葉は何度も聞かされているはず。
気がつくと別の声掛けをしていたそうだ。

「授業がわからないってツラいよね
数学の何が難しいか話してくれる?」

生徒は不思議そうに教師の顔を見つめ、
一言つぶやいたという。

「分数がわけわからない」

その日からマンツーマンの特訓が始まった。
不思議なもので一度理解できるようになると
あれよあれよと言う間に
小学校算数の問題が解けるようになった。
続いて中学校数学の問題へ。

「今では三角関数は得意分野なんです」

数学教師は嬉しそうに私に話してくれた。
「教えるのではなく、共に学んだ一年間でした」

都立高校を後にしながら
その生徒がちょっとだけ見せた「笑み」が
私の頭から離れなかった。

🏫

ドラマ『めだか』の主題歌は
スピッツの『正夢』。

歌のラストフレーズ

ずっと まともじゃないと わかっている
もう一度 キラキラの方へ 登っていく

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.94

大学生の時に
お目当ての映画を観ようと
下宿近くにあった名画座へと向かった。
今では珍しくなった二本立て。
お目当ての映画と同時上映していたのが
『男はつらいよ』だった。

「あ〜ぁ、寅さん映画かぁ・・」

中高校生の頃から正月になると、
大人たちが「寅さん」を話題にしていた。
正直、私にはそれほど興味があったわけではない。
大がかりなハリウッド大作や
カンフー映画の方に魅力を感じていた。

その日も、お目当ての映画だけでいいかな、
そんな気持ちで映画館に入ったのだが、
下宿に帰っても特段やることもない。
時間だけはいくらでもある大学生。
もう一本の『男はつらいよ』も一応観ておくか、
深くも考えずに「寅さん」を初めて観たのだった。


🎬


名画座を出た私は、
なぜだか心が温かくなっていた。
『男はつらいよ』の不思議な魅力。

上映中、何度も腹を抱えて笑い、
時折、しんみりとさせられた。
ただ単に、寅さんが女性に惚(ほ)れて
最後は失恋して旅立つというだけのストーリー。
それでもその不器用な生き方が素敵に思え、
少し、カッコいいとさえ感じていた。

その後、寅さん映画を片っ端から観た。
名画座やテレビの再放送。
気がつけば全49作を制覇(せいは)していた。


寅さんは決してカッコいい事は言わない。
それでも、カッコいいと思えるのだ。

甥(おい)の満男(吉岡秀隆)に自慢する。

「他の人になくてね、伯父さんに有り余るもの、
それは "暇" だよ」

甥の満男が寅さんに尋ねる
「人間って何のために生きてるのかなぁ」

ちょっと考えて寅さんが答える。

「何というかな
ああ生まれてきて良かった、
そう思うことが何べんかあるだろう
そのために生きてんじゃねえか」


「忙しい」と言うことが
カッコいいと思っている世の中で
自分は「暇」だと自慢できるカッコよさ。

欲しいモノが何でも手に入る生活が
幸せなのだと思い込んでいる世の中で
本当の幸せは何なのかを
さらっと言えるカッコよさ。

SNSでのつながりが幅を利かせ、
人と人とが直接会って
本音をぶつけ合う機会が少なくなった今。
多少荒っぽさがあっても
寅さん(渥美清)の表情には
いつも人を思う優しさが満ちている。


精神科医の名越康文さんが書いていた。

誰かに薦められて観る映画ではなく、
ふとしたきっかけで出会う映画であると。

映画の中の人たちが
ふとしたきっかけで寅さんに出会い、
その生き方に心魅かれるように。

お目当ての映画を観ようと名画座に向かい、
ふとしたきっかけで二本立てのもう一本である
『男はつらいよ』に出会った私のように。


🎥


ちなみに今となっては
そのお目当ての映画が何であったのか
全く思い出せない私なのである。


※「コラム」欄に「余録」も掲載しました。
左欄「カテゴリ」から「コラム」を選んでください。

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.93

20代の頃、私が担任する学級では
次から次へと問題が発生していた。
教師になって間もない私には
それらの問題を未然に防止するための
経験も力量も不足しており、
事後処理に追われる日々であった。

あの日・・・

帰宅しようとした私のもとに
地域の商店から
学級の生徒が店でトラブルを起こしたと
突然電話がかかってきた。

「店まで謝罪に行って来ます」
折れそうになる心を奮い立たせ
職員室を出ようとしたその時、
先輩の一人が私に声をかけてきた。

「何事も経験だよ、頑張れ」

私はその一言に負の感情を抱いた。

〜 こんなに頑張っているのに 〜

思わず先輩に対して
失礼な言葉を吐いていた。

「他人事のように言わないでください!」

つい声を荒げてしまった私は
ばつが悪くなり
逃げるように職員室を後にした。


🏫


「頑張れ」という言葉を生徒に対して
なぜ使ってはいけないのか?

数年前、ある教員研修の場で
若い教師から質問を受けたことがある。

質問への答として
私は当時の体験を話した。
あの日の私の率直な思いを。
言葉を使う側が
良し悪しを判断するのではなく、
言葉を受け取る側が
どう思うかが大事なのだと。


マラソンの応援で
日本では「あと○キロ」と励ますことが多い。
残りはあと少し、頑張れ、という思いを込めて。

海外のマラソンでは
「Well done」が使われることが多いと聞いた。
「頑張れ」というよりも
「ここまで良く頑張った」という意味だ。

確かに「あと○キロ」は
「残り○キロしかないのだ」と思う人もいれば
「まだ○キロもあるのか」と思う人もいるだろう。

「頑張れ」も
「よし、もう一息頑張ろう」と思えるか
「これ以上頑張れと言うのか」と思えるかは
人によってそれぞれだろう。

あの日の私は
「これ以上頑張れと言うのか」
そんな先の見えない苛立ちだった気がしてくる。


🏃


あの日・・・

店主へ謝罪をし、
今後の事を話し合うために
生徒宅まで家庭訪問し、
私は疲れた体で学校まで戻ってきた。
時計は21時を回っていた。

既に職員室は誰もいない。
重苦しい気持ちのまま
自分の机の上にふと目をやった。

メモが置いてあった。

数時間前、私に「頑張れ」と告げた
先輩からのメモであった。
そこには次のように書かれていた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さっきは、ごめん
よく頑張ったね
〜〜〜〜〜〜〜〜〜

そのメモを読み終えた時、
私の気持ちは少し軽くなっていた。


※ 砧中学校 学芸発表会が終わりました。
生徒のみなさん
本当によく頑張りましたね。

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.92

『ALWAYS 三丁目の夕日』

昭和30年代の東京 下町を舞台に
その時代、そこに暮らす人々の
温かな触れ合いを描いて大ヒットした映画である。

昭和37年生まれの私にとっては
遠い日のかすかな記憶を思い起こし、
「あの頃は良かった」と
何度観ても涙する映画である。

ところがである。
戦前に生まれた方に
この映画の感想を聞いたところ
意外な答えが返ってきた。

「映画は良かったとは思うが・・・
あの時代はそんなにいい時代でもなかったよ」


🌇


「記憶」について考えてみた。

先週10月13日に放送された
NHKスペシャル『東京ブラックホール』
1964(昭和39)年の東京を
当時の記録映像をもとに振り返る。

この年はそう、東京五輪の年である。

1964年は日本が戦後の復興を果たし、
世界の先進国の仲間入りをし、
大きく飛躍した年として記憶されている。

本当にそうだったのか?

番組では、私たちの記憶の中から
すっぽりと抜け落ちてしまった
1964年の負の側面に迫っていく。

公害による大気汚染が人々を苦しめる。
ネズミやハエ、蚊の大量発生。
ゴミの大量廃棄に汚物の海洋投棄。

そういった東京の影を覆い隠すかのように
急ピッチで進められる公共工事。
その工事現場での事故の多発。

東京五輪自体の記憶もまた
いつの間にか美化されている。

"東洋の魔女"伝説として語られる
女子バレーボールの金メダル。
汗と涙の感動物語・・・

いや、実際は金メダルへの期待から
五輪を前に引退を希望していた選手たちに対し
世間から浴びせられた多くの誹謗中傷があったのだ。

優勝を決めた直後の監督に笑顔はなかった。

しかし、いつしか
そういった記憶は遠くへ追いやられ、
経済発展や感動の記憶によって
あの時代は語られるようになっていった。


🏐


「記憶」とはいったい何だろう?

2019(令和元)年10月13日。
その番組を観ている途中で
ニュース速報のテロップが流れた。

〜 W杯ラグビー、日本がスコットランドを破り
史上初のベスト8入り達成 〜

そしてその画面の端では
「台風19号 豪雨による被害情報」が表示されていた。

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.91

以前、知人の高校の先生から聞いた話である。

高校入試の面接官をしていたその先生。
ある年の推薦入試で一人の女子中学生を面接した。

面接官
「三年間で一番思い出に残っていることは?」
中学生
「はい、私はソフトボール部の部長に選ばれ・・」

ここまではよくある面接の受け答え。
面接官もこの後の流れは
ある程度予想していたそうである。

中学生
「部長としてチームをまとめ、
大会では目標のベスト4を達成して・・」

いや、そういう話にはならなかったのだ。
実際は

中学生
「部長としてチームをまとめられず、
部員の心は離ればなれとなってしまい、
結果、最後の大会は一回戦敗退となりました」

その生徒の話は続く。

中学生
「私は自分の無力を感じました
それでも私はこの経験を忘れないと決めました
高校ではその時の辛さを心に刻み
今度は笑顔で話せる思い出をつくりたいと思います」

面接官をしたその先生は私に話してくれた。
「うまくいった話が人の心に響くのではない
うまくいかなかった話に人は共感できるんです」


⚾⚾⚾⚾⚾


失敗したこと
うまくいかなかったこと

私たちはこれまで何度も経験してきた。
できれば、そんな話は人にはしたくない。
できれば、うまくいった話をしたい。
できれば、相手が羨(うらや)ましく思う話をしたい。

SNSを開くと「幸せ」を競い合うかのような
投稿が勢揃いしている。
かく言う私もつい、自慢話を披露してしまう。

誰に向けて?
誰かに羨んでほしいから?

でも自分が一番わかっている。
現実はそんなにうまく行っていないことを。

そんな時、SNSの中で
友人の投稿を見つけた。
仕事で大きなミスをして
立ち直れそうにない、と書いてあった。

共感した私は
励ましのメッセージを送った。



📱📱📱📱📱


随分前の話になるが、
学級担任していた私は
その時のクラス運営がうまくいかず
試行錯誤を繰り返していた。

合唱コンクールを前に
どうしてもまとまらないクラス。
気持ちは焦るばかり。

生徒たちを鼓舞しようと
数年前に担任したクラスが
どれだけ素晴らしかったのか、
その結果、優勝を遂げた経験を話した。

話せば話すほど生徒たちの心は離れていった。
ある女子生徒が私にポツリと呟いた。

「そんな過去の話、聞きたくないです」


ある日、ふと思い立って
学活の時間に自分の中学時代の話を
クラスの生徒たちに語り始めた。

この『富岳の眺め』No.18で昨年紹介した
運動会のリレーで私が転倒をして
クラスが最下位に終わった話を。
クラスメートに顔向けができず
教室に戻りたくなかった思いを・・
そんな私をクラスメートが
帰らずに教室で待っていてくれた思い出を・・

話し終えた時、ちょうどチャイムが鳴った。
生徒たちはじっと私を見ている。

教室を出たところで
「過去の話は聞きたくない」と私に言った
例の女子生徒が私を追いかけてきた。

また批判されるのかと構える私。
そんな私に彼女は一言だけ呟いて走り去った。

〜 ちょっと泣けました 〜

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.90

「レシートを無くさないように」

2日に帰校したI組移動教室。
最終日のお土産購入でのこと。
担任からの指示を受け、
生徒たちは財布の中身と相談しながら
思い思いの商品を買い物かごへと入れる。

「先生、アイス買うお金が無くなりました」

慌てて、お土産を元に戻す生徒も。

その後、受け取ったレシートを確認しながら
お小遣い帳に支払い額を記入していく。


スマホ決済など
キャッシュレス化が急速に進む昨今。
それに比べて、
財布の小銭を数えながら
また小銭でおつりを受け取りながら
買い物をする生徒たちの姿は
昔ながらの光景かもしれない。

でも・・・と昭和世代の私は思う。
このアナログな買い物経験があるからこそ
初めてスマートな買い物ができるのだと。


👛👛👛👛👛


若かりし頃、
私はバックパックで外国を旅した。

ヨーロッパのある町での出来事。
家族経営の小さなホテルに宿をとった。
チェックインする際に
白ひげの陽気なおじいさんが
前払いで、と私に言った。

二泊する予定の私は
前払いで二泊分を支払った。

清潔で快適なホテルの部屋。

私はその町を二日間満喫し、
地元の人たちとの交流に
心から感動した。


事件は最終日に起きた。
ホテルをチェックアウトしようと
ルームキーをフロントに返し、
笑顔で手を振りながら
立ち去ろうとした、まさにその時だった。

あの白ひげの陽気なおじいさんが
突然、私を大声で呼び止めた。

「あなたは宿泊費をまだ払っていない!」

そんなはずはない。
チェックインした初日に
私はちゃんと全額支払っている。

身振り手振りで説明する私。
おじいさんの陽気さは影を潜め
険しい表情で首を横に振るばかり。

気まずい空気が流れる。
二日間の楽しい思い出が、
あの感動の日々が
消し飛んでしまうほどの衝撃。

その時、私は思い出した。
確か初日にレシートを受け取ったはずだ!

どこだ?
レシートをどこにしまった?

リュックをひっくり返し、
探すが見つからない。

ハッとしてズボンのポケットに手を入れる。

あった!
くしゃくしゃになったレシート。
シワを伸ばし、おじいさんに見せた。

おじいさんはレシートを手に取り
宿泊費が支払い済みだと確認すると
胸に手をあてて心から謝り始めた。

「ノープロブレム」

私にもやっと笑顔が戻り、
ホテルを後にした。


その後、社会科の教師となった私は
繰り返し生徒たちに伝えてきた。

「レシートを無くさないように」

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.89

新聞のコラムを読んでいて、ハッとなった。

普段当たり前のように使っている日本語。
その言葉を初めて聞いた人は
どんなイメージを持つのか、といった内容だった。

例えば「赤ん坊」。
私たちにはもちろん可愛くて
愛らしい姿が浮かんでくる。
しかし、初めてこの言葉に接した人、
例えば日本語を習い始めた外国の人は
その漢字からイメージするのではないか。

真っ赤な姿の坊や・・・?

何だか『ゲゲゲの鬼太郎』に登場しそうである。

同じように「刺身」はどうだろうか。
私たちはもちろん、赤身や白身の
新鮮な魚の切り身が浮かんでくる。

しかし、初めてその言葉に接した人は・・・
刺された身???
いや、想像するのはやめよう。

ふとお笑いタレント
"厚切りジェイソン"のネタを思い出した。

「金」に「同じ」と書いて「銅」。
「金」と「銅」は同じじゃないだろ!!


🥇 🥇 🥇 🥇


自分が幼かった頃、
初めて聞いた言葉にどんなイメージを持ったのか、
遠い日の記憶を手繰(たぐ)り寄せてみた。

あれは私がまだ小学校に入る前のこと。
近所の人のこんな会話が耳に入った。

「○○さんちのお嬢さん、"箱入り娘"なのよ」

幼い私は驚いた。
箱の中に入った娘・・・?!

ちょうど私の頭の中では
ビックリ箱の中からバネで飛び出してくる
女性のイメージが浮かんでいた。
そして身震いした。

数日後、そのお嬢さんとバッタリ出会った時、
「バァ」と箱から出てくる姿が浮かび、
ちょっと怖くなって
その場から走り去ったように記憶している。

とても素敵なお嬢さんだったのに。


😮 😮 😮 😮


さて、冒頭の新聞コラムに話を戻そう。
外国から来た人や幼い子どもでなくても
最初に聞いた言葉のイメージが
いつしか定着してしまうことがある。

「温室効果ガス」

「効果」という言葉のイメージは
比較的、良い影響の意味で使われる。
急速な気候変動の
元凶と考えられている「温室効果ガス」。
しかし、言葉のイメージから
どうしても危機感が薄れてしまう。

例えば「気候変動元凶ガス」と言われれば
私たちは排出削減に全力を挙げようと思うだろう。

国連サミットをはじめとして
世界中で「温室効果ガス」削減に向けた
様々な動きが起きた今週。
もちろん、ニュースでも取り上げられているが、
日本ではスポーツの話題などに比べて
どうしても関心が低いように思えてならない。

言葉のイメージは別にしても
次世代の子どもたちのために
まずは身近なところから
行動を起こさなければ、と思う。
また訴えるべきことは訴えなければ、と思う。
「世間体」を気にすることなく。

そもそも、その「世間体」って、
「世間」の「体」って
いったい何だろう?


Why,Japanese People?
やってみたければ
やってみればいいだろ!
なぜ、人に聞くの?

By "厚切りジェイソン"

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.88

1970年4月11日
アメリカ・ケネディ宇宙センターから
月面を目指して有人宇宙船が打ち上げられた。

アポロ13号。
打ち上げ時刻は13時13分。

そして2日後の4月13日、
月を目前にして、突然船体に爆発が起きる。
その爆発でメインエンジンが作動停止。
3人の宇宙飛行士を乗せたアポロ13号は
絶体絶命の危機に陥ることとなった。

「13」という数字は欧米諸国の多くで
不吉な数字と信じられてきた。
13号、13時13分、13日。

不吉な運命を背負った宇宙船

しかしこの最悪の状況から
奇跡の生還に向けて何千もの人たちによる
英知を結集した救出作戦が繰り広げられる。

フライトディレクターによる帰還方法の決定、
システムエンジニアによる高度な軌道の計算、
エンジン設計者や開発者による
予備エンジンの耐久可能性の判断。

誰か一人でも計算や判断を誤れば、
アポロ13号は決して地球には戻ってこれない。

宇宙センター管制室と
宇宙船内の飛行士たちとの緊迫の時間。
生還に向けて一つ一つの問題が
迅速に、そして確実に解決されていく。

しかし帰還軌道に乗ったと安堵したのも束の間、
更なる難問が発生する。
想定外の措置をとってきたことにより、
船内に二酸化炭素が充満してきたのだ。
排出濾過(ろか)装置が機能しない。
このままでは乗組員たちは窒息してしまう。


ここに一人の男が登場する。
ケン・マッティングリー。

彼は本来アポロ13号に搭乗予定だった。
しかし打ち上げ2日前に、
風疹感染の疑いが生じ、
乗組員から外されたのである。

「不運の男」マスコミは彼をそう呼んだ。

気落ちした彼は、それでも
仲間たちの成功を見守ろうと
たまたま管制室に居合わせたのだった。

宇宙飛行士、窒息の危機。
管制室の誰もが
成す術(すべ)もなく茫然となっていた。


その時、マッティングリーは思い出していた。
これまで自分たちはあらゆる訓練をしてきた。
想定される危機を回避するためのあらゆる訓練、
二酸化炭素が充満した場合の訓練・・・

そうだ! 濾過装置が故障した時の対処方法も
かつて一度だけシミュレーションしたはずだ!!

船内に残ったありあわせの道具で
簡易濾過装置を作ったではないか。
ビニール袋、ボール紙、ガムテープ……… 。

マッテイングリーの記憶を頼りに
管制室からの指示が出される。
船内の飛行士たちは
その指示に従い、
船内に残る道具を使い、
即席の濾過装置を作る。
少しずつ下がっていく二酸化炭素の濃度。
胸をなでおろす管制室の面々。

その後も大気圏突入時の角度の計算や
帰還時の気象対策など
多くのスタッフたちが全力を傾ける。
決して一つのミスも許されない。

そして、船体爆発から87時間後、
アポロ13号の乗組員は無事地球に帰還する。

「成功した失敗」
「栄光ある失敗」

失敗からいかに立ち直るか、
アポロ13号の教訓は
今も私たちに「失敗から学ぶ」姿勢を
教えてくれている。

不吉な数字と言われた「13」。
実は13号が13時13分に打ち上げられたのは
決して運命的なものではなかった。
科学の最先端にいる者として
古い迷信に立ち向かう。
アポロ計画のスタッフたちは
敢えて打ち上げをその時間に設定したのだ。

そして、「不運の男」ケン・マッティングリー。
彼はその2年後に打ち上げられたアポロ16号に
宇宙飛行士として搭乗を果たしている。

「今もまだ風疹は発症していないよ」
80歳を過ぎた彼は笑ってそう語った。


※ NHK BSプレミアム「アナザーストーリーズ」
『アポロ13号の奇跡 緊迫の87時間』
2019年7月16日放送より

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.87

北極圏にある世界一大きな島グリーンランド。
日本の面積の約5.73倍、
人口は全島で約56,000人。
「グリーン」というその名に反して
国土の80%が雪と氷に覆(おお)われている。

日本ではあまり知られていなかったが
グリーンランドはデンマーク領であり、
今も本国デンマークからの
自治権拡大を求める運動が続いている。
アメリカ合衆国が購入するしないのニュースで
この数ヶ月話題となっている。


そのグリーンランドを舞台とした映画
『北の果ての小さな村で』が公開中である。

デンマークから一人の青年教師がやって来る。
人口わずか80人の小さな村チニツキラーク。

青年教師アンダース。
実家の農業を継ぐべきか悩んだ末に
現実から逃げるように
グリーンランドの中でもより過酷な環境にある
チニツキラーク村での教師を選んだのである。

「自分探し」のための職業選択。

しかし、彼の甘さはすぐに露呈(ろてい)する。
授業に全く興味を示さない子どもたち。
連絡もなく平気で学校を休む。

アンダースの悩みは学校だけではない。
厳冬の中、自宅の暖房器が故障する。
修理には何日もかかるという。

ついにアンダースのイライラが限界に達する。
「こんなことなら帰国する!」

しかし村の世話役から逆に問い詰められる。
「この地に何を期待して来たんだ?」

そう、これがチニツキラークの現実なのである。

子どもたちが将来なりたいのは
家族を支えるための狩人である。
子どもたちが将来身につけたいのは
生きるための知恵や技術である。

学校を休んだのも
祖父とともに狩り行くためだったのだ。
祖父から孫への技能の継承。
何世代にもわたり繰り返されてきた営み。

村人たちが学校や教師に何を求め、
子どもたちが本当に学びたいものが
何であるのかを知るために、
アンダースは少しずつ村人との交流を始める。

周囲が変わるのを待つのではなく、
自らが変わらなければならないのだ。

「自分のために」働く、という意識が
いつしか「村人のために」へと変化していく。

「自分探し」とは、人のために尽くした結果、
気がつけば自分自身が何かをつかんでいる、
そういったものなのかもしれない。

印象的なシーンがある。

アンダースは村人や子どもたちと一緒に
食糧としてのシロクマ狩りの旅に出る。
交通手段はもちろん、犬ぞりである。
猛吹雪に耐え、
雪穴で夜を過ごし、
やっとの思いでシロクマに遭遇する。

しかしそのシロクマが子ども連れと知った時、
村人たちは狩りを諦(あきら)める。
大自然に向き合って生きる狩人たちの
「仕事」に対する厳格なルールがそこにある。


❄️ ❄️ ❄️ ❄️


その後のアンダースはどうなったのか?
彼は今もチニツキラークで教師を続けているという。

そう、この物語は実話なのである。

※2年生職場体験、お疲れ様でした。

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.86

夏休み最後の週末。
TVで放映されたアニメ『天空の城ラピュタ』。
知る人ぞ知る、スタジオジブリ制作の第1作。

1986年公開時は決して大ヒットした訳ではない。
当時はまだアニメは子どもが観るもの、
そんな世の中の雰囲気が残っていた。

物語は少年バズーと少女シータの冒険物語。
既に社会人だった私も
今更アニメの冒険物語を映画館で、とは思わなかった。

宮崎駿監督はこの映画に一つの信念を持っていた。
かつて子どもだった大人たち。
子どもたちが喜ぶ作品であれば、
きっと大人たちの心にも届くはず。

宮崎監督のねらいは少しずつ浸透していく。
その後到来したネット社会。
TVでこのアニメが再放送されるたびに
ネット上で話題が広がっていく。

そして冒険物語に込めた、
「平和」を願う監督のメッセージが
様々なシーンの解釈を通して
大人の心にも響いていったのである。

なぜ、天空都市ラピュタは
滅びなければならなかったのか、
少女シータのクライマックスでの魂の叫びは
30年以上経った今でも私たちの胸に突き刺さる。

🏰 🏰 🏰 🏰

映画公開当時、
『ラピュタ』ファンの生徒たちから何度か質問された。
このアニメの中で最も好きなキャラクターは?

その当時はうまく答えられなかったが、
今の私ならきっとこう答えるだろう。

「誰も守る人がいなくなったラピュタの墓に
いつまでも花を手向け続けるロボット兵」と。

ロボット兵・・・ラピュタ住人による創造物。
その使い方によっては
凶暴な戦闘ロボットにもなり、
一方でラピュタの住民を守護する存在ともなる。

ロボット兵のキャラクターこそ
AI時代が到来しようとする現代に向けた
過去からの警鐘(けいしょう)、
私にはそう思えて仕方がない。

🤖 🤖 🤖 🤖

令和となった今も根強い人気の『天空の城ラピュタ』。
この空中都市の空飛ぶ仕組みや構造について
宮崎駿監督は一切説明を加えていない。

なぜだろうか?

原作者から仕組みや構造を聞いて
何となくわかった気分になりたい、
正解を聞くことで安心したい、
そういった心理が私たちにはある。

本当に大切なことは
正解を聞いて納得することではなく、
視聴者一人一人が
自らの想像力を巡らして
自分なりの答えを見出だしていくことではないか。

幼き頃、世界の不思議さに
様々な空想を巡らしていたように。
画像1 画像1

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.85

8月も終わりに近づいたある日、
中学生だった私は夏休みの自由研究に
全く手をつけていないことに気づいた。

2学期の始まりまで残りわずか。
焦った私は悩んだ末に、
自宅近くのお寺へ出向くことにした。
そのお寺の写真を撮り、歴史を調べて
模造紙に体裁(ていさい)を整えれば
自由研究としての見栄えはするだろうと思ったのだ。

私はお寺へと自転車を走らせた。

向かったお寺は
四国八十八箇所のお寺の一つであった。

📷 📷 📷 📷

お寺に到着した私は
早速カメラで何枚かの写真を撮った。
そして立て札に書いてあるお寺の歴史を
せっせとノートへ写し始めた。

これで自由研究は何とかなった・・・

ホッとする私。
いや、ホッとはしたが、
なぜだか釈然としない気持ちが残った。

「これって研究と言えるのだろうか?」
そんな後ろめたさがあったのだ。

それでも私はその気持ちを振り切ろうとした。
2学期はもうそこまで迫っている。
今さら元には戻れない。


その時、私の後ろで突然声がした。

「若いのに偉いねぇ・・・」

振り向くと80歳過ぎと思われる
おばあさんが立っていた。

「お参り、ご苦労様です」
おばあさんは私に何度も頭を下げた。

「家に冷たいスイカあるからお寄りなさい」
おばあさんはそう言って
私をお寺近くにある自宅へと案内してくれた。
戸惑いながらもおばあさんに付いていく。
そこは昔ながらの農家だった。

お盆にのった冷たい麦茶とスイカが私の前に出された。
お寺へ来た本当の理由を言い出せない私。

おばあさんはゆっくりと話し始めた。


四国八十八箇所のお寺を巡ることは
昔は命懸けであったこと。
そんなお参りをする人たち(お遍路さん)を
四国の人たちは暖かく迎え入れ、
無償で家に泊めたり、食事を出したりしてきたこと。
その文化を「お接待(せったい)」と呼び、
今も変わらず受け継がれていること。

「お参りする気持ち、大事なんですよ。
だからこのスイカはお接待なんですよ。
遠慮せずにどうぞ召し上がれ。」

おばあさんの話を聞ききながら
私はスイカに手を伸ばした。
冷たく、とても甘いスイカだった。

「お接待」の話を聞いたことはあったが、
まさか地元に住む自分が受ける側になるとは。

私は勇気を出して、
おばあさんにお寺へ来た本当の理由を話した。

実は自転車で数十分の所に住んでいること。
決してお参りが目的ではなく
自由研究のために、とりあえずお寺に来たこと。

それでもおばあさんは笑顔でこう言った。
「このお寺を選んだのもご縁ですね」

私は麦茶とスイカのお礼を言い、
おばあさんの家を後にした。
自転車で曲がり角まできて振り返ると
おばあさんはまだ手を振ってくれていた。

なぜだかわからないが、
「ご縁」という言葉が頭から離れなかった。

🍉 🍉 🍉 🍉

帰宅後 模造紙を前に考え込む私。
しばらくして市立図書館へと自転車を走らせた。

図書館で何冊かの本を選び、
学習室で真剣に調べ始めた。

いつの間にか私の自由研究のテーマが
「わが町のお接待文化」に変わっていた。

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.84

「体育館に蜂(はち)が出ました!」

私は殺虫スプレーを持って走る。
雑木林に接する砧中学校では
毎夏繰り返される光景。

「近づかないで!」
生徒たちに声をかける。
そして蜂が壁に止まるタイミングを待って
殺虫スプレーを噴霧(ふんむ)する。


  🐝    🐝    🐝    🐝


今、子どもたちに大人気のキャラクター
俳優 香川照之が扮(ふん)する『カマキリ先生』。

幼い頃からの昆虫好き。
その趣味を生かして
NHK ETVの『香川照之の昆虫すごいぜ!』で
メインキャスターをつとめている。

昆虫を愛する熱量は半端ではない。
昆虫のどこに魅(ひ)かれるのか?

「本能のままにまっすぐ生きる昆虫の姿、
 最高にいいんです」

そして番組の中で何度も繰り返す。

「人間よ、昆虫から学べ!」

そんな『カマキリ先生』。
先日は遂にETVから飛び出し
なんと総合の『NHKスペシャル』
『香川照之の昆虫 "やばいぜ!"』に登場した。

昆虫王国と言われる中米コスタリカでの取材。

コスタリカの昆虫がまたすごい!
モルフォチョウ
プラチナコガネ
エレファスゾウカブト・・・
その色彩、その大きさ、その生態
すべてに驚きの連続であった。

しかし最も驚いたのが
世界中で昆虫の数が急激に減少しているという事実。
この30年間で毎年2.5%減少しているという。
このままのペースだと100年後には
昆虫の数は現在の1%未満になってしまう。

この状況を専門家は『昆虫カタストロフィ』と呼ぶ。
昆虫が花粉を運ぶことで育つ植物、
その植物が減少する。
それを食料にしていた草食動物に影響が及ぶ。
次に草食動物を食料としていた肉食動物にも。
そう、食物連鎖が破綻(はたん)するのだ。

昆虫の好き嫌いに関わらず
私たちはこの地球で共存共栄している。
急速な都市化や農薬の大量投入、
そして地球温暖化が確実に昆虫に影響し始めている。

一方でオオカバマダラという蝶は
温暖化に適応するため、
羽を少しずつ巨大化させているという。
自分に合った気候の土地まで
遠い距離を飛べるようにと。

昆虫はやはりすごい!
やばいのは人間なのかもしれない。


  🦋    🦋    🦋    🦋


砧中体育館に話は戻る。

殺虫スプレーで退治した蜂を
ビニール袋に入れる。
生徒たちの安全のためには仕方ない。

体育館裏手の雑木林へと向かう。
私は蜂をビニール袋から出し、
土へと還(かえ)した。

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.83

〜 監督、帰ったら大勢で迎えてくれるのか、
 がっかりした人を見るのか、どっちでしょうね? 〜

  🏟️    🏟️    🏟️    🏟️

1931(昭和6)年、甲子園球場。
第17回全国中等学校野球(現:高校野球)大会に
台湾代表の嘉義(かぎ)農林学校が初出場を果たした。
当時、台湾は日本の統治下にあった。

前年までは台湾での予選で
1勝すらしたことのない弱小チーム。
しかし新たに日本からきた近藤兵太郎監督は
台湾、中国、日本それぞれの民族の持ち味を生かし、
混合チームとして強化していく。
走力、打力、そして守備力と
それぞれの特技を最大限発揮させたのだ。

「農業の勉強もしないで」と嘉義の人たち。
それでも懸命に練習を繰り返す選手たちの姿に
次第に町をあげて応援するようになっていく。

そして嘉義農林は台湾予選を勝ち進み
ついに憧れの甲子園の切符を手にしたのである。


甲子園でのマスコミの反応は冷ややかだった。

「混合チームでどうやって会話するの?」
心ない質問が投げかけられる。
野球の実力には関心を持ってくれない。
なぜならそれまでの台湾代表チームは
全て日本人で構成されていたのである。

しかし、大会が始まると
嘉義農林は快進撃で勝ち進む。
甲子園のファンたちも
その真剣な戦いぶりに
次第に嘉義農林を応援するようになっていく。

彼らのユニフォームには「KANO」の文字。
まさに「KANO」旋風が甲子園を席巻(せっけん)する。
そして嘉義農林はついに決勝戦へと進出する。
決勝戦の相手は全国No.1の愛知県代表中京商業。

それまでの激戦の中で
嘉義農林の選手たちは既に満身創痍(まんしんそうい)。
最後まで粘ったものの力及ばず敗れる。
それでも甲子園の観客は嘉義農林の選手たちに
惜しみない拍手を送る。

甲子園は今も昔も敗者に優しい。

1931年のこの年、
甲子園で準優勝した嘉義農林の選手たち。

後に、ある者は日本の野球界で活躍し、
ある者は台湾で野球の普及に尽力した。
そしてある者は太平洋戦争に召集され、戦死している。

戦前から戦後にかけて、
甲子園のファンの間では
「KANO」の躍進は語り草になったという。

  ⚾    ⚾    ⚾    ⚾

1931年、全国準優勝した選手たち。
甲子園から台湾へと戻る船の中でのこと。
エースの呉明捷選手が
近藤監督に問いかける。

〜 監督、帰ったら大勢で迎えてくれるのか、
 がっかりした人を見るのか、どっちでしょうね? 〜

監督が静かに答えた。

〜 きっと見渡す限り、
 風にたなびく黄金の稲穂が迎えてくれるさ 〜


※参考:台湾映画
   『KANO 1931海の向こうの甲子園』(2014年)

※「コラム」欄に「余録」を掲載しました。
最後のセリフの背景がわかります。

校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.82

『富岳の眺め』No.52で紹介した無人古書店。
  (2018年度1月14日up)

その無人古書店を運営されている方が
新たに本屋を開店したという新聞記事を読んだ。
名付けて「ブックマンション」。
簡単に言うとレンタルボックスの本屋版らしい。

店内に78個ある本棚を
本屋をやってみたいという人に貸し出す。
1個の本棚を借りた人は
「店主」として自分が売りたい本を並べられる。

その本棚にはそれぞれに「店名」がある。
「トビラ書店」や「歴史棚」など。
「店主」は毎月本棚レンタル代と
一冊本が売れるたびに
100円を運営者に支払うというシステム。

誰でも手軽に本屋を開店できるのだ。

つまり「ブックマンション」の中には
78のお店(本屋)があるということになる。

興味がわいた私は、早速その店を訪ねてみた。
吉祥寺駅北口から徒歩5分。
道路に面したビルの半地下にその店があった。

運営(発案)者の中西功さんと
直接お話することができた。

「本屋を増やしたいんです」
と語る中西さん。

「一人で本屋をやるのは
 ちょっと自信がないという人も
 みんなとやるなら
 やってみようと思うでしょう」
それが発案のきっかけだそうだ。

無人古書店のアイデアも
もともとは無人野菜販売からのもの。
その着想のユニークさに感心する私。
一人だとお店を出す勇気がなくても
みんなと一緒なら一歩踏み出せる。

自分のお薦(すす)めの本を
誰かに売りたいと思う人にとっては
まさにうってつけの「ブックマンション」。

私が無人古書店の常連客だと話したことで
しばらく読書の話題に花が咲いた。

「その本に出会えたことで
 今まで知らなかった世界を知ることができる」
そうですよね、と共感する私。

「では、お薦めの本は?」と尋ねてみる。
中西さんがおもむろに取り出してきた本が
『ねじとねじ回し』。

普段は気にも留めないねじとねじ回し。
本と出会わなければ
生涯知ることのないその深い世界。

私はその本を購入した。

「500円以上お買い上げの場合は
 もれなく綿菓子製造機で綿菓子が作れます」

何となく子どもの頃にかえったような
ワクワクさせるアイデア。
思わず割りばしに手をのばしかけて
私はふと考えた。

50歳代後半の私が
吉祥寺の街を綿菓子を持って歩く姿を。

しばらく迷った末に
丁重にご辞退申し上げた。

店を後にしながら
私の中のもう一人の私が
何度も私に声をかけてきた。

「本当は綿菓子作ってみたいんじゃないの」と。


※『富岳の眺め』No.52をご覧になる場合は
 左欄「過去の記事」から「2018年度」を選び
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