寄り道をしないで下校しよう。

雪の八幡小

 今日は朝から雪。子どもたちは雪が積もってくれることを期待していましたが、昼頃から雨になり、どんどん溶けていってしまいました。それでも雪は方々で美しい光景を創り出してくれました。
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雪の校庭での道作り

 雪の日は、とても滑りやすくなります。そのため、主事さんたちが雪を取り除き、道を作ってくれました。子どもたちは雪がもっと積もることを期待していたようですが、昼頃から雨が降り、どんどん溶けていってしまいました。次の雪に期待ですね。
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今日は予告なしの避難訓練

 今日は予告なしの避難訓練でした。子どもたちも私語なく真剣に参加しました。本校の第二次避難場所は多摩川河川敷です。地域の広域避難所も同じ場所になっています。そこまで避難する必要がある大震災がないよう願っています。
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今年の十二支は未(ヒツジ)!

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 干支とは、中国から伝わった考え方で、十干と十二支を組み合わせ、60を基本にした数詞のことです。暦や時間、方位などに使われました。

 干支の中の十二支に「未(ヒツジ)」があります。十二支は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の総称ですが、大変古い時代から伝わったと言われています。中国の名前だと「商」、あるいは「殷」の時代からとも言われます。陰陽五行説とも合わさって、様々な意味に受け取られています。

 今回の未は「語源由来事典」によると
「未」は、『漢書 律暦志』では、「昧曖(まいあい)」の「昧」と記され、食物が茂って「暗い」、果実が熟した状態「味(み)」を指すと言われているそうです。
 豊作への願いが込められているとも言われています。

 八幡の皆さんにとっても、様々な意味で、豊作の年になりますよう願っております。

「東京市八幡尋常小学校」と改称

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昭和7年. 4. 1日に、荏原郡の東京市編入により、「東京市八幡尋常小学校」と改称されました。昭和5年当時の校舎や校庭の様子です。

八幡小学校が今の場所に移ったのはいつ?

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 八幡小学校は、明治34年. 8. 9. 荏原郡玉川村 「八幡尋常高等小学校」と名前が変わりましたが、人数が増え、手狭になったため、明治35年. 8. 5. 今の場所に草萱平家移築増築されて、児童数173名の八幡尋常高等小学校が生まれました。
 今から113年も前の事でした。
 また、明治38年には、日露戦争の勝利を祝い、「誉れの桜」が校庭の真ん中に植えられました。これは運動会などでは邪魔になったとの記録が残っていますが、なかなか切ることはできなかったようです。

八幡小学校という名前になったのは、いつ?

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 「八幡小学校」という名前になったのは、いつなのでしょうか。
それは、今から130年ほど前のことです。

明治15年.12.20.
 荏原郡奥沢村尾山村公立小学校、「八幡小学」となりました。

明治17年.12.20.
 荏原郡奥沢村尾山村公立小学校、「八幡小学校」となりました。

明治17年.9.23.
 村社八幡神社(現奥沢神社)隣地に校舎(草萱平家、2教室)新築。

 その当時の校舎の図面です。

八幡小学校の創立!

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八幡小学校は世田谷でも、とても古い学校です。
一番古いのは明治4年創立の若林小学校。

創立は明治12.12.20日で、「荏原郡奥沢村尾山村公立小学校」の「八幡小学校」として開校しました。
児童数30名 校舎49.5平方メートルで、村社八幡神社(現奥沢神社)の社寮を修理し、校舎(一教室)としたと言われています。
ずいぶん小さな学校だったのですね。

しばらくして改修した校舎の絵です。藁葺きの小さな校舎ですね。
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