私と弱視教育

この手記は、平成16年5月 東京都弱視教育研究会定期総会において行われた、本校弱視学級卒業生の講演の原稿を、ご本人の了解を得て転載したものです。

K.S

私は笹原小学校目の教室の出身です。視力は左が0,07、右が0です。眼疾は小眼球です。私は小学校6年間笹原小学校に通い、中学、高校は私立に通いました。今はT大学の四年生です。専攻は音楽療法です。

私は今、自分が弱視であるということを殆ど意識することなく日々の生活を送ることが出来ています。これは一にも二にも目の教室のおかげだと思っています。小学校時代、目の教室で五年間私を指導してくださった先生は、今になっておっしゃいます。 「あの頃はね、あなたが大きくなった時の姿を想像して、その時のために今何が出来るだろうって考えて、訓練の計画を立てたのよ。」 と。この先生の想像は、まったく見事に的中してしまい、私はただただ脱帽です。

小学校低学年の頃は、教科書を拡大してもらい、オプチスコーブで黒板の字を見ながら授業を受けていました。本は母に読み聞かせてもらうことが大半でした。ピアノは楽譜を見ながら弾くことが出来なかったので、カセットを聞いて暗譜して弾いていました。 私は家でも学校でもいつも特別な子供でした。 「見えにくいからこれはだめ。」 「見えにくいからこれは無理かしら」 「見えにくいからこの子とお友達になってあげて」 というような言葉をいつも聞いていました。私の願望は決まって 「みんなとおんなじにやりたい」 でした。

私は二年生の頃から弱視眼鏡の訓練を始めました。これが後で私の人生を大きく変えることになるなどと本人はいざ知らず、あついとか重いとかうざいとか、文句さんだらで初めのうちは15分とかけていなかったそうです。その弱視眼鏡にも慣れ、授業の中で自主的に使い始めたのは高学年になってからです。電動糸ノコとミシンが出てきた日にはさすがに、あついとか重いとか言っている場合ではなくなったのでしょう。

なぜ親が私を私立に入れる気になったのか、私はよく分かりません。多分私をお嬢様に育て上げるつもりで私立を探し、「自由で個性を尊重し」というその学校のキャッチフレーズに惹かれて選んだのでしょう。合格が決まってから本人に迫った問題は、今度の学校には目の教室がないこと、オプチスコープの持込が出来ないということでした。

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卒業を間近に控えた雨の降る寒い日、目の教室で先生と私はレンズと格闘していました。 あのレンズにこのアタッチメントをくっつけてみたり、また他のものと取り替えてみたり・・・。その時に誕生した眼鏡がこれです。これは今でも私の生命線で、大学でもこれ一つですべてこなしています。眼鏡のフレームに4倍の単眼鏡が取り付けてあり、それにニコンの弱視眼鏡の3倍のアタッチメントがついています。いろいろやってみた結果、どうもこれが一番良いということになりました。アタッチメントを外すと黒板を見ることが出来、付けるとノートを見ることが出来ます。また、ピントの合わせ方によって楽譜を離して見る事が出来るので、ピアノやその他の楽器での初見が利くようになるのです。これは私にとってとても大きなことでした。目の教室での訓練はこの日で終わりでした。でもそれからは、毎日が私にとって訓練でした。

卒業した中学校は極めて自由な学校でした。個性的な子供が多く、私の障害もそんなに目立ちませんでした。先生たちは私たちを実に良く見ていながら、干渉してくることは殆どありませんでした。私のことも良い意味で放っておいてくれました。このことは私がスムーズに友人関係を築くことが出来た大きなきっかけになったと思います。授業では特に困ることはありませんでした。体育の球技は小学校の頃と同じように見学させていただきました。その他のこと、例えば理科の実験とか工作とか体育のその他の種目などは、まぁ、自分がやりたいと思ったこと、必要だと思ったことは時間をかけてもやり、まぁ、これは後の人生にそんなに影響しないかな、と勝手に判断したことは適当に手を抜いたり、友達にやってもらったりしながらすごしました。すべてを完璧にやれとおっしゃる先生はいらっしゃらなかったので、気が楽でした。

私は中学一年生から高校三年生までオーケストラのクラブでクラリネットを吹きました。このクラブで、私は音楽の楽しさに出会い、その世界にどんどんはまってゆきました。ここでも私は特別扱いされることはありませんでした。指揮者の先生はなかなかこわい先生だったのですが、私も吹けなければみんなと同じように怒鳴られました。明らかに不公平だなと思うこともありました。例えば初見が私はどうしても苦手でした。でも例えば家で前もってさらってくるとか、CDを聴いて来るなどすれば、みんなと同じように吹くことが出来るのだということを本人は徐々に学んでいったようです。

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このクラブでは、友達関係でもかなり悩みました。これは弱視というところに原因があるのかどうか分かりませんが、小学生の頃私は友達をつくることが苦手でした。子供たちは時々、目と目で会話していたり、表情でなんとなく通じ合って動いていることがありますよね。私はそういうことが出来なかったので、その辺に引け目を感じていたのかもしれません。このクラブでも私はなかなか同学年のグループに入ってゆくことが出来ませんでした。あまり辛くて、クラブを止めようかと思ったことも何度もありました。でも6年間かけて私はこれを克服しました。知らず知らずのうちに私は注意して人を観察し、その場の雰囲気を掴み取ることを覚えたのです。今私は幸い友達の幅がとても広いのですが、これはクラブで鍛えられたおかげだと思います。

高校二年生になった時、私は首席のクラリネットを吹くことになりました。首席とはオーケストラの中心の方に座っている人たちで、ソロが沢山出てくる重要なパートを担当します。このパートを吹くからには、今までのように指揮者がなんとなく見えているというのでは済まされないなと思い、私はもう一つ新しい眼鏡を作りました。今までと同じ4倍の単眼鏡の上に、もう一つ小さい2倍の単眼鏡がついています。この眼鏡によって私は指揮者の棒や表情をはっきりと見ることが出来るようになりました。この年の定期演奏会で私たちはベートーヴェンの第五交響曲を演奏しました。この思い出は今でも私の大きな自信に繋がっています。

外を歩くことはやはり危険です。本当は自転車も止めた方が良いのでしょうが・・・。 しかし私は中学生の頃、よく母に「怖かった」という報告をするようになったそうです。その時母はかえって安心したそうです。 「この子もやっと危険を意識するようになった。もう大丈夫だろう。」 と。それ以来、母は私について来ることが殆どなくなりました。 今でも初めての場所は苦手です。友達と一緒に歩く時ははぐれないようにしてもらったり、ゆっくり歩いてもらったりします。一人で歩く時は、意識して目印を覚えたりしながら歩きます。今でもよく道に迷いますが、こればかりは行かざるを得ないというのが先にたって、気がついたら一人で新幹線にも乗っていましたし、大きな駅もなんとかくぐり抜けていくようになっていました。

高校生になって勉強は大変ではなかった? とよく訊かれます。確かに大変でしたが、これは私に限ったことではありませんでした。友達もみんな苦労していました。確かに、私は人の倍やらないと人並みにならないことも時々ありました。でも人より多くやることに慣れてしまうと、例えば語学などのようなハンディの無い科目で思わぬ良い成績が取れたり、人より上達が早かったりすることもあります。ですから、まぁ、プラスマイナスゼロかな、と自分に言い聞かせています。

私は中学高校で、とても良い友達に恵まれました。彼女たちは私に学ぶことの楽しさ、探求してゆくことの楽しさを教えてくれました。例えば中国が大好きだったある友達は中学生の頃論語を読み、私にその魅力を語ってくれました。彼女たちのおかげで、私は喜びを持って勉強することが出来るようになりました。実は私は中学校に補欠の7番で入れていただいたのです。でも高校を私は全体の5番という成績で卒業することが出来ました。

私はずっと心理学に興味があり、セラピストになりたいと思っていました。そして高校一年生の時、音楽療法という分野を知りこの道に進むことに決めました。その後大学の音楽学課程に推薦で入学しました。

大学生活は快調に始まりました。一人暮らしもサークルもそして勉強もみな新鮮で、楽しい日々を過ごしていました。しかし、二年生になった時、私にとって転機となる試練が訪れます。

父が脳卒中に倒れ、8か月間の入院の末に亡くなりました。この出来事を通して、私は今まで知らなかった病院の悲惨な現状、苦しみ、痛みを知ることになります。

父が逝った年の春、私はベルリンに留学する機会を与えられました。父のことがあって、私はどうしてもある一つの病院を見学したいと思っていました。みなさんはルドルフ・シュタイナーという人物をご存知でしょうか。日本ではおそらく教育者として知られているでしょう。彼が提唱した人智学という学問に基づく医療を実践している病院が、ベルリンの郊外にあるのです。私はその病院を訪ね、そこで行われた音楽療法のセミナーに参加してきました。病院の壁の色の暖かさ、丸く有機的に作られている階段の手すり、大きな窓から湖が一望できる休憩室。そして音楽療法室にある楽器の種類の豊富さ。それらはみな一つ一つ治療の目的に合わせて手作りで作られているのです。あぁ、人は人にこんなにやさしくなることが出来る。私は心を動かされました。そしてまたいつかここに来て音楽療法を勉強したいと強く思いました。

私の今の夢はベルリンで、4年間かかるのですけれど、音楽療法と他の芸術療法を勉強して来ることです。その後私に何が出来るか分かりませんが、いつの日か日本に、シュタイナーの医療を実践する病院をつくる運動が出来たらいいなと思っています。

先日私は、目の教室で5年間私を育ててくださった先生とお会いしました。喫茶店でお茶を飲んだ時、私が眼鏡でメニューの細かい文字を読んでいるのをご覧になって先生は驚かれたようでした。

「あなた、それ3倍のアタッチメントよねぇ。その字小学生の頃だったら、5倍でもきつかったと思うわよ。見かたが少し上手くなったんじゃない?」 と。私は、 「え、そうですか?」 と軽く流しておきましたが、本当はすごくすごく嬉しかったのです。 「いろいろあったんだから・・・」 と、いろいろ無いのに、ちょっと甘えてみたかったりして。

私はこの世の中には、弱視だから出来ないことってあると思います。それから、弱視でも出来ることってやはりあると思います。また、弱視だからこそ出来ることもやはりあると思います。私たちはついつい、弱視だから出来ないことに目がいってしまいがちです。そしてお母さんたちは子供の先回りをして道を整えてあげようとします。でもこれは時々、子供が弱視でも出来ることや、弱視だからこそ出来ることを見つけてゆくのを邪魔してしまうことがあるのではないかと私は思います。少しきつい言い方かもしれませんが、子供の成績が悪ければ普通の子と同じように叱るべきだと私は思います。勿論明らかに不公平なこともあります。でも子供は、例えば自分の得意な分野で頑張るとか、どこかで帳尻を合わせる方法を学んでゆくのです。見えにくいからしょうがない、で済まされるのは子供が小さいうちだけです。大きくなれば、それも一つの能力として見なされてしまうのが現状だと思います。また、弱視でも出来ることの幅を広げてくれるのは補助具です。補助具の工夫によって、可能性はかなり広がると私は思います。

弱視ゆえの苦労って確かにあると思います。でも、健常者との生活の中で、弱視だからこそ出来ることを発見した時、その喜びは苦労をはるかに上回るものだと私は思います。