音楽発表会4 8月26日(金)

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私も何度も鳥肌がたってしまいました。
夢のような時間でした。
ありがとう。
そしてお疲れさまでした。

音楽発表会3 8月26日(金)

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聴いている人すべての心に届く演奏でした。

音楽発表会2 8月26日(金)

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演奏は素晴らしく、力強く美しい音色が会場に響き渡りました。

音楽発表会1 8月26日(金)

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世田谷区内の中学校の吹奏楽部の音楽発表会がめぐろパーシモンホールで開催されました。
弦巻中吹奏楽部もコンクールで披露した2曲を演奏しました。

夏休み6 8月26日(金)

主事さんたちもいつも学校の周辺、学校の中、きれいを保ってくれています。
ありがとうございます。
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夏休み5 8月26日(金)

水泳部も練習が終わったようです。
いっぱい泳いでへとへとですね。お疲れさま。
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夏休み4 8月26日(金)

バスケットボール部体育館で活動中。
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夏休み3 8月26日(金)

格技室で卓球部、体育館でバスケットボール部活動中。
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夏休み3 8月26日(金)

吹奏楽部。
今日目黒パーシモンホールで行われる「音楽発表会」に向けて最後の気合の練習です。
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夏休み2 8月26日(金)

サッカー部の活動中。
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夏休み1 8月25日(木)

野球部の活動です。
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夏休み後半3 8月18日(木)

午後は雨が止んだので、野球部が校庭で元気に練習をはじめました。
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夏休み後半2 8月18日(木)

バレー部も頑張っていました。
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夏休み後半1 8月18日(木)

夏休みも今日から後半に入り、あと2週間となりました。久しぶりの部活動、午前中はあいにくの雨模様でした。
廊下と格技室で練習する陸上競技部とサッカー部です。
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夏休み 8月15日(月)終戦記念日

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77年前の8月15日、午後0時、玉音放送と共に、多くの犠牲者を出した太平洋戦争が終わりました。戦争にかかわる特集番組がたくさんありました。
1982年、今から40年前にNHKで放映された「そしてトンキーもしんだ」という番組です。戦時下で、空襲のためということで殺された上野動物園の動物たちの本当の話でした。号泣しました。
その他にもたくさん見ました。
三年生の修学旅行で長崎に行った時に、戦争を体験した人から直接話を聞ける最後の世代だと思うと言っていました。
本当にその通りだと思います。
改めて、戦争のことを考えること、これからの社会を担っていく私たちの使命のひとつだと思います。
ぜひ、何かひとつでも、77年前の戦争に触れ、今世界で起こっているさまざまなことに目を向けてください。
戦争は人権侵害する最も卑劣な行為です。経験した人ならもう二度と起こしたくないと思っています。あの恐ろしい、人を人で失くしてしまう77年前の戦争を忘れないことが、戦争をnoと言える強い意思に繋がるはずです。
未だに終わりが見つからないウクライナの戦争は、他人事ではないのです。

2022年8月15日
加藤ユカ

学校休業日 8月13日(土)〜17日(火)

今日から5日間の学校休業日になります。
学校は完全に閉鎖されていますので、何かあれば、学校休業日中の連絡先へ連絡お願いします。
この時期日本はお盆休みと言います。
お盆は、日本で夏季に行われる祖先の霊を祀る一連の行事です。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事です。
かつては太陰暦の7月15日を中心とした期間に行われた。 明治期の太陽暦の採用後、新暦7月15日に合わせると農繁期と重なって支障が出る地域が多かったため、新暦8月15日をお盆とする地域が多くなったそうです。
今年は13日〜16日にあたります。
台風8号が上陸。
夏休みも後半に入ります。
3年生は受検勉強をがんばっていると思います。
1、2 年生の皆さんは宿題は終わりましたか?
復習は進んでいますか。
夏休みも三文を過ぎました。
そろそろ、2月期に向けての準備を始めてください。

野球部決勝戦2 8月11日(祝)

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暑い中、頑張りました。結果は準優勝。
都大会出場は、今回は逃しましたが、この悔しい気持ちを次の大会につなげてください。
保護者の皆様もたくさんの応援ありがとうございました。
立派な準優勝です。
おめでとう。

野球部決勝戦1 8月11日(祝)

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世田谷総合運動場野球場で、野球部の大会の決勝戦を見に行きました。
相手は、船橋希望中と芦花中の連合チームでした。

夏休み 8月9日(火)長崎原爆の日です

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6日の広島原爆の日から3日後の9日、長崎も77年目の原爆の日を向かえました。
11時2分、長崎は原爆の犠牲者と恒久の平和を願って祈りに包まれました。私も校長室で、この1分間の黙祷を共有し、原爆で亡くなった方、今もなお戦争を背負って苦しんでいる方々のこと、母のことを想いました。
ここに、長崎田上市長の平和宣言の一部を紹介します。
長崎市長平和宣言 
核兵器廃絶を目指す原水爆禁止世界大会が初めて長崎で開かれたのは1956年。このまちに15万人もの死傷者を出した原子爆弾の投下から11年後のことです。  被爆者の渡辺千恵子さんが会場に入ると、カメラマンたちが一斉にフラッシュを焚(た)きました。学徒動員先の工場で16歳の時に被爆し、崩れ落ちた鉄骨の下敷きになって以来、下半身不随の渡辺さんがお母さんに抱きかかえられて入ってきたからです。すると、会場から「写真に撮るのはやめろ!」「見世物(みせもの)じゃないぞ!」という声が発せられ、その場は騒然となりました。  その後、演壇に上がった渡辺さんは、澄んだ声でこう言いました。  「世界の皆さん、どうぞ私を写してください。そして、二度と私をつくらないでください」  
核保有国のリーダーの皆さん。この言葉に込められた魂の叫びが聴こえますか。「どんなことがあっても、核兵器を使ってはならない!」と全身全霊で訴える叫びが。
省略

日本政府と国会議員に訴えます。
 「戦争をしない」と決意した憲法を持つ国として、国際社会の中で、平時からの平和外交を展開するリーダーシップを発揮してください。  非核三原則を持つ国として、「核共有」など核への依存を強める方向ではなく、「北東アジア非核兵器地帯」構想のように核に頼らない方向へ進む議論をこそ、先導してください。  
そして唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約に署名、批准し、核兵器のない世界を実現する推進力となることを求めます。  
世界の皆さん。
戦争の現実がテレビやソーシャルメディアを通じて、毎日、目に耳に入ってきます。戦火の下で、多くの人の日常が、いのちが奪われています。広島で、長崎で原子爆弾が使われたのも、戦争があったからでした。戦争はいつも私たち市民社会に暮らす人間を苦しめます。だからこそ、私たち自らが「戦争はダメだ」と声を上げることが大事です。  私たちの市民社会は、戦争の温床にも、平和の礎にもなり得ます。不信感を広め、恐怖心をあおり、暴力で解決しようとする“戦争の文化”ではなく、信頼を広め、他者を尊重し、話し合いで解決しようとする“平和の文化”を、市民社会の中にたゆむことなく根づかせていきましょう。高校生平和大使たちの合言葉「微力だけど無力じゃない」を、平和を求める私たち一人ひとりの合言葉にしていきましょう。
長崎は、若い世代とも力を合わせて、“平和の文化”を育む活動に挑戦していきます。  
被爆者の平均年齢は84歳を超えました。日本政府には、被爆者援護のさらなる充実と被爆体験者の救済を急ぐよう求めます。  
原子爆弾により亡くなられた方々に心から哀悼の意を表します。  
長崎は広島、沖縄、そして放射能の被害を受けた福島とつながり、平和を築く力になろうとする世界の人々との連帯を広げながら、「長崎を最後の被爆地に」の思いのもと、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。  2022年(令和4年)8月9日  
長崎市長 田上富久
今年、弦巻中学校の3年生が長崎に修学旅行に行きました。
来年も再来年も続きます。
弦巻中学校で積み上げた人権平和の願いをしっかりとつないでいきたいですね。
つながれ、平和な未来へ

夏休み 8月8日(月)77年前の戦争を考える

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6日は、広島原爆の日でした。
広島では、たくさんの人、国連総長も出席した平和記念式典、祈りの一日になりました。原爆に関するさまざまなテレビ番組もありましたがみましたか?
さて、原爆を落とされた日本は、もう崖っぷちにたたされていました。
頼みの綱は当時のソ連。
しかし、ソ連は、イギリスやアメリカとヤルタ会談で、ドイツが降伏したあと、参戦すると密約をしていて、8日に日本に宣戦を布告したのです。。翌9日にはソ連軍機甲部隊が国境から南下を始め、またたく間に満州(現中国東北部)や朝鮮半島北部を制圧しました。
 日本はソ連と満州国の国境地帯に、精強で知られる関東軍を置いていましたが、太平洋戦争も後半になると、関東軍主力は南方戦線に引き抜かれており、戦闘力は著しく低下していました。
若い男の人たちは兵隊にとられ、満州には開拓者としてたくさんの日本人がすんでいました。
宣戦布告後、国境からなだれ込んだソ連軍は圧倒的な兵力で関東軍の残置部隊を破った。日ソ戦の戦死者はソ連側推定で日本軍8万人、ソ連軍8200人とされています。
戦争が終わって、とらえられた日本兵は、そのままシベリアへ送られ多くの人たちが亡くなったのです。私は今、収容所から来た遺書(辺見じゆん著)を読んでいます。シベリア抑留中のお話です。
読めば読むほど、こんなことが起こっていたのかと恐怖と怒りがわいてきます。今年映画化されて公開が予定されているそうです。主演は嵐のメンバー二宮和也さんです。
興味があったら読んでみてください。
明日は、9日。長崎原爆の日です。
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