全校朝会(3月12日 同窓会 山崎勝弘様のお話)
- 公開日
- 2012/03/12
- 更新日
- 2012/03/12
今日のできごと
今朝の全校朝会では、同窓会の山崎勝弘様が、「駒沢小学校の始まり」についてのお話をしてくださいました。
皆さんお早うございます。 私は今から58年前の昭和29年にこの駒沢小学校を卒業した山崎勝弘と言います。昨年の7月11日の朝会で駒沢給水塔のお話をしましたので覚えている人もいると思います。今日は駒沢小学校ができる前、昔の人が毎日勉強をしていた場所のお話をしに来ました。
今から139年前の明治5年に江戸から明治になったばかりの明治政府から最初の国民教育を決めた学校の制度が発表されました。この発表を受けて世田谷の上馬、駒沢地区は野沢、下馬地区と一緒になり環状7号線と246号線の交差点近くにある宗円寺と言うお寺の中に「就学所」と言う子供達が一緒に勉強する場所が出来ました。
しかしこの学校は最初から今のような立派な校舎ではなく、写真にあるような屋根をワラで作ったワラ葺屋根の農家のような家でした。当時の卒業生のお話によれば、学校は古いお寺の本堂を教室に使ったもので、わら葺屋根に障子といった様子で障子を開ければ隣は、直ぐ校長先生のお住まいでした。教員室はありません。教室の隅にテーブルが一つ、椅子が二つ、これが教員室でした。先生は校長先生と担任の先生のたった2人、生徒は1年生から4年生まで70人くらいでした。
始業時間が来ると先生が鐘を鳴らし生徒は毎日、読み書き、算盤のみで体操も歌の時間もありませんでした。教科書はありましたが字を書くものは石盤、石筆、墨、硯、筆で鉛筆だのノートの様な便利なものはありませんでした。
通学服は着物で、墨が付くと汚れるので油紙の前掛けをし、履物は草履、風呂敷に勉強の道具とお弁当を包んで腰にしばりつけ通学しました。お弁当はサツマイモが多く、お正月近くになるとお餅でした。
この宗円寺のお寺の中に就学所と言う学校が出来てから29年後の明治34年になって駒沢小学校の校舎が駒沢大学駅前の今の都民銀行のあたりにやっと出来ました。
—以上—