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校長室の窓から〜『富岳の眺め』 No.52

公開日
2019/01/14
更新日
2019/01/14

校長室より

夜更けの商店街の片隅に
ポツンと明かりが灯る店がある。

無人古書店

2畳ほどのスペースに
実用書から地理・歴史、映画、科学に至るまで
様々なジャンルの書籍が並んでいる。
この古書店、無人の野菜販売をヒントに
6年前に開店した。

本の裏表紙に貼られた金額を販売機に入れ、
持ち帰り用の手提げ袋を購入するシステム。

「善意」と「信頼」に支えられたその店に魅かれ、
休日前の夜になると私はふらりと立ち寄る。


  📕    📕    📕    📕


私が古書店を訪れるようになって
かれこれ40年近くになる。
学生の頃、下宿の近くにあった店に
暇さえあれば入り浸(びた)っていた。

ある日のこと。
夕闇迫るその店で偶然見つけた本。

夏目漱石『吾輩は猫である』

誰もが知る名作中の名作でありながら
私は大学生になるまで一度も読んだことがなかった。

少し黄ばんだ背表紙。
複数の人が所有したであろう、くたびれたカバー。
短編と思っていた『吾輩は猫である』。
その分厚さに驚き、思わず手に取り
パラパラとページをめくった。

ふとあるページで手が止まった。

赤鉛筆で線を引いた跡が目に入ったのだ。

以前の持ち主が印をつけたのであろう。
その赤鉛筆の引かれた箇所を読んで、
私は大きく息を吐いた。
しばらくしてその言葉が私の心に染み込んできた。

   呑気(のんき)と見える人々も
   心の底を叩(たた)いてみると 
   どこか悲しい音がする


都会に馴染(なじ)もうとして
無理して明るく振る舞っていた当時の私。
周囲から面白い奴、おどけた奴と思われながら
実は孤独感を抱えていた。
そんな自分の心境に近かったこともあり 
その言葉が胸の奥に響いたのだ。

そしてふっと心が軽くなった。
この言葉に線を引いた前の持ち主も
もしかしたら私と同じ思いを抱いていたのかもしれない。

古書店は時を隔(へだ)てた
人と言葉との出会いの場である。


  📖    📖    📖    📖


商店街の片隅の無人古書店。
今はもう本に赤鉛筆の跡を見ることもない。

夜更けに店のドアを開ける。
本棚の本をしばらく眺める。
一冊の本を手に取って
パラパラとページをめくる。

私は今も期待しているのかもしれない。
心に響く珠玉(しゅぎょく)の言葉との出会いに。
そして同じ思いを抱く時を越えた人との出会いに。