校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.193
- 公開日
- 2021/09/12
- 更新日
- 2021/09/12
校長室より
No.193【「つながる」ということ】
上京して間もない頃、
私は突然の発熱に見舞われた。
38度以上の高熱が
一週間ほど続いた。
頭痛に喉(のど)の痛み、
その上関節の痛みまでも加わる。
病院で処方された薬も
一向に効果を表さない。
下宿三畳一間での一人暮らし。
孤独と不安にさいなまれながら
なぜか明治の俳人である
尾崎放哉(ほうさい)の句が
繰り返し頭の中を巡っていた。
〜 咳をしても一人 〜
💊
当時唯一の通信手段は
下宿先の玄関に設置されている
大家さんが所有する
ダイヤル式黒電話であった。
たとえその黒電話を使ったとしても
上京して日の浅い私には
駆けつけてくれる親しい誰かが
近くには住んでいるわけでもない。
発熱してから数日後のこと。
夢と現実の間を
もうろうと行き来していた私は
三畳一間の部屋のドアを
誰かがノックする音を聞いた。
這いずるようにしながら
ドアを開ける私。
ドアの前には皿が置いてあった。
その皿の上にはおむすびが二つ、
それと味噌汁にお漬物。
そして皿の横には
大家であるおばあさんの
カタカナ交じりの手書きのメモが。
「チャントたべなさい」
そういえばその日の朝、
足元をふらつかせながら
共同トイレへと立った時
おばあさんと顔を合わせていた。
思うにその時の様子から
私の体調を察したのであろう。
それまでほとんど何も
口にしていなかった私は
皿の上のおむすびを見て
急に空腹感を覚えていた。
家族と離れた生活の中で
人と「つながる」感覚を
私が初めて実感した瞬間だった。
🍙
いつの頃からか
「つながる」という言葉は
ネット上での交流を
表すようになっていった。
そして「つながる」こと自体が
目的へと変化してしまい、
私たちの意識や行動を
がんじがらめに縛っている。
「つながる」を絶たれることを恐れ、
「つながる」にしがみつく。
普段は少し距離をおいていても、
本当に必要とされる時に
大丈夫、見守っているよ、と
サインやメッセージを送る、
それもきっと「つながる」ということ。
決して四六時中ではなくても
そんな「つながる」を実感した時に
人は心の安らぎを
覚えるのかもしれない。
太宰治『斜陽』からの一節。
おむすびが
どうしておいしいのだか、
知っていますか。
あれはね、
人間の指で
握りしめてつくるからですよ。