校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.202
- 公開日
- 2021/11/13
- 更新日
- 2021/11/13
校長室より
No.202【考えれば考えるほど】
No.201からの続き。
志賀直哉の短編小説『小僧の神様』
小僧の仙吉に鮨(すし)をご馳走した
主人公である貴族院議員のA。
しかしなぜか「変に淋しい気持」が
彼の心の中に芽生えてくる。
その “なぜか" について考えてみた。
⚖️
たとえば私自身で考えてみる。
私が誰かのために奉仕をする。
奉仕をした私は心のどこかで
相手から感謝されるだろうと
期待をしているように思う。
しかし奉仕をした相手が
もしも感謝しなかったなら、
私はきっと奉仕したことを
後悔するだろう。
いや、後悔ではなく、
腹が立つかもしれない。
「これだけしてあげたのに」と。
結局は奉仕をすることで
感謝されるという「見返り」を
私は期待していたことになる。
「誰かのため」は純粋に
「誰かのため」なのか。
どこかで「自分のため」が
紛れ込んでいないだろうか。
「あなたのため」という言葉に
どこか違和感を覚えるのも
「あなたのため」の向こう側に
「自分のため」が透けて見えるから。
👛
鮨を食べるお金が足りなかった
仙吉の姿を見かけた時に、
Aは仙吉を可哀想だと思った。
可哀想だと思ったのは
Aの気持ちである。
可哀想と思うか思わないかは
A自身の気持ち次第である。
可哀想と思えばご馳走し、
思えなければご馳走しないのか。
鮨をご馳走したのは
「仙吉のため」だったのか。
また鮨をご馳走したことは
「仙吉のため」になったのか。
考えれば考えるほど
私の中にも「変に淋しい気持」が
芽生えてくるように思えた。