校長室の窓から〜『富岳の眺め』 No.23
- 公開日
- 2018/07/07
- 更新日
- 2018/07/08
校長室より
生まれて初めて「作り笑い」をしたのは
小学校4年生の時である。
昼休みが終わって教室に戻り、席につこうとした。
私の座るはずの椅子が無くなっていた。
友だちが面白半分に私の椅子引いたのだ。
思いっきり床に尻餅をついて激痛が走った。
周囲の友だちが「爆笑」していた。
「笑い」は本来、嬉しくて楽しい時に出るものと思っていた私は、
体裁(ていさい)を取り繕(つくろ)うために
「作り笑い」をしている自分に驚いていた。
その時の周囲の友だちの「爆笑」は、
別の表現で「嘲笑(ちょうしょう)」と呼ぶことを
しばらく経ってから知ることになる。
いつの頃からかテレビのお笑い番組が
「嘲笑」や「作り笑い」に支配されるようになった。
いじられキャラの芸人を周囲が冷やかしからかう。
そのオロオロした姿に観客や視聴者が笑う。
ニヤニヤと「作り笑い」を浮かべるいじられる側。
動物の中で笑うのは人間だけだと何かの本で読んだ。
「笑い」は人間の喜びを体現する自然な感情である。
そして、「笑い」の健康面での効能も証明されている。
それなのに屈折した「笑い」が拡散しはじめている。
苦笑、冷笑、含み笑い、愛想笑い、追従笑い・・・・。
以前、観光地で和やかに記念写真を撮る家族を見かけた。
微笑ましいその姿が一変した。
突然、母親が小さな子どもを叱ったのだ。
「ほら、ちゃんと笑いなさい!」
叱られて笑いを浮かべる子ども。
強烈な違和感。
子どもの笑顔のために記念写真があるのであって、
記念写真のために笑顔があるわけではないのだ。
私は昭和のお笑いを観て育った世代である。
好きだった漫才師は兄弟漫才「夢路いとし・喜味こいし」
通称「いとこい」である。
二人の漫才を見ると「笑い」の真髄(しんずい)は
「間(ま)」にあると思う。
喜味こいしがつっこむ。
「それを先に言わんか」
夢路いとしがさらりと返す。
「それを先に聞かんか」
ツッコミも相手をおとしめたり、叩いたりしないで
穏やかな口調で問いかけるように
「もしもし・・・」。
その絶妙な間合いに観客は笑わされる。
二人の漫才は今の時代も決して色褪(あ)せていない。
⭐ ⭐ ⭐ ⭐
落語家の桂歌丸師匠が亡くなられた。
昨年、入退院を繰り返す師匠がインタビューに答えていた。
病院ではテレビでよくお笑い番組を観ていたという。
その感想を聞かれた師匠が一言。
「落語はしゃべるもんじゃなく、聞くもんですねえ。」
コメントも粋(いき)である。
山田くん、座布団一枚!