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校長室の窓から〜『富岳の眺め』 No.15

公開日
2018/05/30
更新日
2018/05/30

校長室より

最初に結論から書く。

日常生活で「いじられキャラ」を喜んでいる人なんていない。

テレビのお笑い番組での「いじられキャラ」。
あくまでも芸としてのキャラクターの設定である。
「いじられキャラ」を売りにしている芸能人も、
日常生活でいじられることが続くと腹が立つという。

テレビなどの虚構の世界と日常生活の境界が曖昧になっている。
芸風としての「いじる」「いじられる」の関係性が
日常生活に入り込んできて久しい。
大人の関係の中でも「いじる」「いじられる」を持ち込む。
当然子どもたちにもその風潮は波及する。

そして誰もが「いじる」側に入りたがる。
その方が安全で優越感を覚えるから。
その結果、少数の「いじられる」人が生まれる。
まさにいじめの構造と同じ。

ドラマや映画では悪役や敵役が存在する。
しかし日常生活で「悪」や「敵」にされたい人なんていない。
「悪」や「敵」を演じることと、
日常生活で「悪」や「敵」にされることには雲泥の差がある。
それなのに「いじられる」は日常生活に根付いている。

ある講演会でこの事を話したところ、
聴講者の一人が手を挙げて、私に反論した。
「そんなこと言ってたら円滑なコミュニケーションなんてとれない」と。
私はその聴講者に問いかけた。

「その理屈こそが、いじる側を正当化していないでしょうか?」

私はいじられる側から
円滑なコミュニケーションだ、と聞いたことは一度もない。

ある高校生が私に尋ねた。
「いじられる人もいじられることを喜んでいることはないのか?」
私は否定した。
「いじられてみじめな自分を受け入れられない時、
人は笑って自分を守るしかない。
その笑いは決して喜びからの笑いではない。」


結論を繰り返す。

日常生活で「いじられキャラ」を喜んでいる人なんていない。

  ☆   ☆   ☆   ☆

50年以上にわたってドラマや映画で
悪役、敵役、斬られ役を演じ続けてきた
俳優の福本清三氏。

〜 頑張っていれば必ずどこかで誰かが見ていてくれている 〜

プロである福本氏でさえ、
そう自分に言い聞かせてきたという。