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校長室の窓から〜『富岳の眺め』No.72

公開日
2019/06/08
更新日
2019/06/09

校長室より

1928(昭和3)年、アムステルダムオリンピック。
この大会からオリンピックの選手として
初めて女性の参加が認められた。

一人の女性が日本代表に選ばれる。
日本人初の女性オリンピック選手、
人見絹枝(ひとみきぬえ)である。

「女性が足を出して走るなどみっともない」

世間では女性がスポーツをすることに
偏見が存在していた時代。
人見絹枝の自宅にも
彼女を非難する手紙が大量に届いたという。

一方、日本代表に選ばれてからは
勝利至上主義のプレッシャーが彼女を襲う。
「金メダルをとれなければ帰ってくるな」と。

無責任な様々な声を背に
彼女はオランダ・アムステルダムへと旅立つ。

 
  🇳🇱    🇳🇱    🇳🇱    🇳🇱


絶対的自信を持って臨んだ陸上100m。
しかし、人見は準決勝で敗退する。
「このままでは日本に帰れない」
追い込まれた彼女は一つの決断をする。
これまで一度も走ったことのない800mへの出場。

8月2日、800mのスタート。
経験のない距離にペースをつかめないまま
中盤まで6位あたりをキープする。
そしてレースの終盤で
人見は猛然とダッシュをする。
次々と選手を追い越し、
トップのドイツ代表ラトケ選手と
熾烈(しれつ)なデッドヒートを演じる。

ラトケ選手のすぐ後ろまで迫るが、
結果、惜しくも2位でゴール。
ゴール直後、人見もそしてラトケ選手も
その場で気を失ったという。
それほど過酷なレースだった。

金メダルには手が届かなかったとはいえ
日本人女性初のメダリスト誕生。

帰国後、人見は銀メダリストとし評価は得たものの
女性スポーツに対する偏見が
依然として根深いことに失望する。

人見は全国を飛び回り、
女性スポーツの普及に全力を尽くす。
しかし、その無理がたたり肺炎を患って
1931(昭和6)年、24歳の若さでこの世を去る。
奇しくも3年前のまさにその日、
彼女が銀メダルを獲得した8月2日であった。

  
  🏃    🏃    🏃    🏃


世間から冷ややかな視線を浴び続けた
女性スポーツのパイオニア。

彼女の言葉が残されている。

  いくらでも罵(ののし)れ!
  私はそれを甘んじて受ける。
  しかし私の後から生まれてくる
  若い女子選手や
  日本女子競技会には
  指一つ触れさせない。


今年のNHK大河ドラマ
『いだてん〜東京オリムピック噺〜』

いよいよ人見絹枝が登場する。