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私と6月17日(+α)

公開日
2022/06/16
更新日
2022/06/16

校長室より

昨日、朝礼での話の内容を掲載しましたが、当時の様子を少し書き加えたいと思います。

私が生まれたのは1961年。
当時、N自動車の関連会社の経理担当の父、専業主婦の母、兄、私の4人家族でした。
私が小学校4年生の時までは、ごく普通の家庭でした。

私が5年生になった1972年、世間は『オイルショック』の大不況になりました。
父の勤めていた自動車関連会社はあおりを受けて倒産。
父が会社の経理担当をしていたため、我が家は多大な借金を抱えることになりました。
父はこの直後失踪、自動車の排気ガスを車内にホースで引き込み、自殺を図りました。
後に父から聞いた話ですが、薄れる意識の中で、私と兄の二人の顔が浮かんで『このまま死んではいけない』と思い直し、必死に車外に出て助かったそうです。
この失踪・自殺は未遂に終わりました。
父はこの後、今までの失敗を取り返そうと、必死に働き始めました。
父の再就職した会社は、ギョーザやシューマイの皮を作る会社でした。
今まで会社の経理担当でそろばんより重いものをほとんど持つことがなかった(身長160cmで華奢な体の)父には、ギョーザやシューマイの皮を作る時に使う小麦粉の大袋を担いで働くは、大変な重労働だったと思います。
かなりの借金を抱えてはいましたが、少しずつ家の中に笑顔が戻ってきました。

1974年2月22日。私が小学校卒業を1か月後に控えた夜のこと。
深夜に母が電話を取る。震えながら涙声の母。病院からでした。
これまでの借金を早く返そうと、毎晩遅くまで働いていた父が、帰宅途中、過労で居眠り運転をして、赤信号で止まっている車に後ろから衝突する事故を起こしたのです。
父はめがねのフレームにそって10針以上縫い、壊れたフロントガラスのかけらがひたいに何個も入る大けがでした。(父が亡くなるまでの47年間、ガラスのかけらが額に数個残っていました。)
母は父の入院に付き添っていたため、小学校の卒業式には、父も母も来られませんでした。
周囲の子は、お父さんやお母さんや身内の人たちが来ているのに、自分だけはひとり。
小学校の卒業式の記念の集合写真、私はひとりだけで写っています。

そんな中で中学校入学。(父が春休み中に退院したので、中学校の入学式には母が来ました。)
父はこの事故を機に、会社の計らいで、経理担当に異動しました。
中学校生活に慣れてきた1974年6月17日、午後は球技大会でした。
球技大会の最中、兄と私は、放送で職員室に呼ばれました。
私は余り「良い子」ではなかったので「何か悪いことしたかなぁ」と思いつつ職員室へ。
校長先生・教頭先生・兄の担任・私の担任など、先生たちが一緒に話していました。
私と兄がそろったところで校長先生から「家が火事だそうだ。すぐ帰りなさい。」と言われました。
家に帰ると、家が半分以上無い。隣の家は全焼。
消防車で消火されていましたが、家中が灰まじりの黒っぽい水であふれて床下浸水のようでした。
焼けるのを免れた我が家の家財道具が、家の前の公園に置いてありました。(近所の人が出してくれたようです。)
隣の家の人の外出中、干していた洗濯物が火のついた蚊取り線香の上に落ちて火事になりました。我が家は隣の火事をもらったのでした。(風向きが逆だったら燃えなかったのに、と今でも思います。)
火事を起こした隣の家族は、そのまま引っ越していきました。
なお、私が帰った時、公園の家財道具の上に置いたままになっていた兄と私の貯金箱、消防署の現場検証に両親と立ち会っている間に、なくなっていました。火事場泥棒って、本当にいるんだなあ、と本当に悲しい気持ちになりました。

この後の中学校3年間、我が家の生活は本当に厳しいものでした。
朝食をきちんと食べられない日もありました。(食べたくないのではなく、食べたくてもないのです)。
昼食は、恥も外聞もなく、給食を毎日お代りしました。
夕食では、おかずはもっぱらもやしを炒めたものか、父の会社で作り始めた冷凍食品のコロッケの試作品か失敗品、ギョウザやシューマイの皮を型取りした後に残る部分をうどんのように細く切ったもの。
これが毎日。今も、うどんとコロッケを見ると当時の生活を思い出します。
お小遣いも、まともにもらえる状況ではありませんでした。
こんな苦しい生活を通して、家族は強い絆で結ばれていきました。
父は10年前に他界しました。
苦しい中を家族全員で乗り越えた経験は、今では、私の人生の大きな宝物です。
この6月17日の火事以降、我が家の不運な出来事は、ぱったりとなくなりました。
まるで、あの火事が我が家の不運をすべて焼きつくしたかのように。
火事から48年。
教員という好きな仕事をして、当時とは比較にならないほどの生活をさせていただいています。
母は認知症が進み、足元もおぼつかず、身体の変調も訴えます。でも、精神的にはまだ元気です。
私自身が今の生活を、「幸せだなぁ」「恵まれているなぁ」と感じられるのは、こんなことがあったからかも知れません。
人とは少し違った生活の中で、私は『苦しさの中にある楽しさ』をほんの少しだけ経験しました。
それは幸いだったのか不幸だったのか・・・、わかりません。
でも、これだけは確信しています。
このつらい経験があったから、小さなことにも「幸せ」を感じられるのだ、と・・・。

そんな6月17日が、またやってきます。

                         校長 大坂 崇